日本近代史・現代を一緒に散歩してみませんか

日本近代史・現代を一緒に散歩してみませんか? ‪「儒教」というと、大抵それはフランス支那学というオリエント学から輸入されてきた京都学派の研究を意味するとかんがてよいようです。それとは別に、丸山真男は徳川儒教を独学したのですね。在野の「学者さん」が発展させた、儒教(朱子学)を経験的多様性方向へと世俗的に脱構築していった徳川儒教のことです。現在それを教える大学が存在するのかどうかよく知りません。‪何かの中で付随的に取り上げられることがあっても独立したものとしてはないのかもしれません。‬基本的には、近代化・西欧化によって脱アジア化していく近代日本の大学教育プログラムは明治のはじめから変わっていないということですね。さて「論語」の言葉を調べていましたら、こういう言葉があります。「子曰く、命を知らざれば、以って君子為ること無きなり。礼を知らざれば、以って立つこと無きなり。言を知らざれば、以って人を知ること無きなり。」ここで、「命」は、自分がかくあることが天からする必然性を覚ること、「礼」とはヘーゲルがいう客観精神にかかわるような社会規範のこと。「言」については、その人が信を置きうる人であるかどうかは、その言葉にあると孔子は言っています。ニッポンの総理大臣は、総理大臣である前に、人として、「命」「礼」「言」で構成されたものをしっかりともっているだろうか?言葉はもともと人の実を表していましたが、為政者の言葉に信頼があるかどうかなんですよね。ちなみに、江戸時代は武士政権を政治批判する言論の自由はありませんから、その代わり、こういうような道徳の次元で徹底的に批判したのでした。道徳性の徹底を民の側から為政者にもとめた伝統が現在にあるのだろうとおもいます。‪朱子学の受容も非常に知的な議論に関心がいくのでした。‬伝統の大切をいうのならば近世に獲得したこれを考えればいいのであって、日本人を狂わした国体概念(天皇万世一系)の時代遅れの「教育勅語」はどうでもよろしいかと‬

「弁名」ノート‬ No. 15 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 15 ( 私の文学的フットノート)

‪子安氏の訳を読みながらここで徂徠が言っていることを理解すると、聖人というのは「当に行うべきの理」(当行の理としての道)を学ばないこと、学ばずと明らかであること、ということらしい。聖人としての孔子も学んだのは先王の道である。これは徂徠の外部的視点から導かれてくるといえるかもしれない‬

‪「市民ケーン」

some people can sing, some can't と「市民ケーン」のオペラ教師は嘆いた。今日安倍の国民劇場で上手く歌う友だちがいるし歌えなかったのもいた...

‪「市民ケーン」の監督オーソン・ウエルズは、神の代わりに世界を創造するとしたブルジョアとその高慢な歴史観を嘲笑ったのです。そのケーンと同じくらいの力をもちはじめたのが安倍晋三です。公共放送をはじめとしてマスコミを支配していて、今日のアメリカ大統領よりも大きな影響力をもっているかもしれません。ケーンは劇場をつくりました。そこで自分の愛人をデビューさせて自分の名声を確立しようとします。だけれど、some people can sing, some can't と「市民ケーン」のオペラ教師は嘆きました。「市民ケーン」は、これを今日の文脈においてとらえ直すとどう理解できるでしょうか?今日ならば、安倍の国民劇場で上手く歌う友だちがいるし、歌えなかったのもいたというところでしょうか。そして今夜のプログラムは「教育勅語」。でもね、いくら、自らの名声と永遠不変の土台をもとめても、そういうものも最後には、ブルジョアの彼ら自身が作りだした世界の掟に従って無感覚に、機械的に例外なく、映画のラストシーンでの収集された無数の積み上げられた銅像のように、市場に売られていくだけなのですけれどね‬ ‬

国家と祭祀

伊勢神社は古代天皇から三種の神器を授かったことで国家日本を正統に継承したのだから、靖国神社と共に憲法政教分離の対象とならないと方言する前に、安倍の分身が国会でこんなヤバイことを言いはじめた。「全体として教育勅語が言ってる精神、道義国家を目指すという精神は取り戻すべきと考える」(稲田)

安倍のあの余裕は一体何か?生活の不安の中で若者は何となく参拝して希望を託す。「若者に支持されている自民党は未来がある」というこの確信が安倍を支えている。何という矛盾!

「弁名」ノート‬ No. 14 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 14 ( 私の文学的フットノート)

‪「真理を知りたい」の「真理というのは、ヨーロッパ中心の排他的真理というか、何か嫌な響きがある。「道をもってこれを人人に属する」とは、道は本性上「一般人」に属するという意味であるが、そこに、「一般人」に同化しなさいというメッセージをどうしても読みとってしまう。「真理」という語を用いなくとも、これと等価の構成的原理がある、それが朱子学の本体論点な思惟の構成。子安氏の評釈によると、「徂徠の批判は朱子学の本体論点な思惟の構成に向けられている。朱子は人の性を本体論的な本性概念として再構成する。」「朱子にあって『性』も『道』も『理』も同一の本体論的な概念である。そこから『道』‬は形而上学的に精緻な哲理あるいは真理といった概念表象を帯びてくることになる」(徂徠学講義『弁名』を読む』)‬