日本近代史・現代を一緒に散歩してみませんか
「弁名」ノート No. 15 ( 私の文学的フットノート)
「弁名」ノート No. 15 ( 私の文学的フットノート)
子安氏の訳を読みながらここで徂徠が言っていることを理解すると、聖人というのは「当に行うべきの理」(当行の理としての道)を学ばないこと、学ばずと明らかであること、ということらしい。聖人としての孔子も学んだのは先王の道である。これは徂徠の外部的視点から導かれてくるといえるかもしれない
「市民ケーン」
some people can sing, some can't と「市民ケーン」のオペラ教師は嘆いた。今日安倍の国民劇場で上手く歌う友だちがいるし歌えなかったのもいた...
「市民ケーン」の監督オーソン・ウエルズは、神の代わりに世界を創造するとしたブルジョアとその高慢な歴史観を嘲笑ったのです。そのケーンと同じくらいの力をもちはじめたのが安倍晋三です。公共放送をはじめとしてマスコミを支配していて、今日のアメリカ大統領よりも大きな影響力をもっているかもしれません。ケーンは劇場をつくりました。そこで自分の愛人をデビューさせて自分の名声を確立しようとします。だけれど、some people can sing, some can't と「市民ケーン」のオペラ教師は嘆きました。「市民ケーン」は、これを今日の文脈においてとらえ直すとどう理解できるでしょうか?今日ならば、安倍の国民劇場で上手く歌う友だちがいるし、歌えなかったのもいたというところでしょうか。そして今夜のプログラムは「教育勅語」。でもね、いくら、自らの名声と永遠不変の土台をもとめても、そういうものも最後には、ブルジョアの彼ら自身が作りだした世界の掟に従って無感覚に、機械的に例外なく、映画のラストシーンでの収集された無数の積み上げられた銅像のように、市場に売られていくだけなのですけれどね
「弁名」ノート No. 14 ( 私の文学的フットノート)
「弁名」ノート No. 14 ( 私の文学的フットノート)
「真理を知りたい」の「真理というのは、ヨーロッパ中心の排他的真理というか、何か嫌な響きがある。「道をもってこれを人人に属する」とは、道は本性上「一般人」に属するという意味であるが、そこに、「一般人」に同化しなさいというメッセージをどうしても読みとってしまう。「真理」という語を用いなくとも、これと等価の構成的原理がある、それが朱子学の本体論点な思惟の構成。子安氏の評釈によると、「徂徠の批判は朱子学の本体論点な思惟の構成に向けられている。朱子は人の性を本体論的な本性概念として再構成する。」「朱子にあって『性』も『道』も『理』も同一の本体論的な概念である。そこから『道』は形而上学的に精緻な哲理あるいは真理といった概念表象を帯びてくることになる」(徂徠学講義『弁名』を読む』)