カリエール

‪「見ておきなさい...」と告げられて、あまりみたくなかったが、映画「昼顔」のテーマとド・ヌーヴに同一化していた母と繰り返しこれを何回観たのかわからないのである。私のダブリン時代のパリ体験のことだったけれど、後年パリのスタジオにやってきた脚本家カリエールをみたとき 、「この人があれを?」と感慨無量だった。「化け物」というか、非常に「重厚な」というか、彼のもつその雰囲気に圧倒されながら、そのときは、シュールレアリスムというのは、知識人が反知性的に表現していくという考えが頭に浮かんだ。しかし反知性的はなんのために?何もかも根拠づける「理」において隠蔽されているその隠蔽を表現していくのというか。大島渚はブニエルからの影響を語るように、彼の陰険かつ欺瞞的なものを指示する映画はシュールレアリスム的なのだ。さてル・ペン(父)が頭角をあらわしてきた時代に、対抗的に、このカルエールの意味は何であったかを自らに問う。思い出すことは、彼の芝居が行われたその年のクリスマスのテレビに、「きょうこの日は、どこでもこの日がキリスト教徒の日としてと同じようにお祝いされるわけではないということ、この日を別の意味を与えるそういう人びとがほかに存在することをフランス人は知らなければいけない日なのではないでしょうか」というようなことを喋った。この道だけではない。他の道のこともあることを考えることが大事だと促すメッセージだということはわたしにもわかった。「見ておきなさい」は何が指示されているかを言葉でとらえきれないが、たしかに、何か大切なことが語られているということを信じていた言葉なのだろうか、そうかもしれない、やっとわかったというか...

韓国大統領選

フランス大統領選の投票に続いて、きょうは韓国大統領選の投票。これはたんなる偶然なのだろうか?わたしはあえてこのことの意味を考えてみようとおもう。

渡辺一民氏がこのことをよく口にしていたが、日本人は常にフランスと韓国という二つの他者を共に考えることが非常に大事なんだという。なぜ?上を見上げている視線の内側に絡みとられたり、反対に、見下したりしている視線の内部に絡みとられてはならないから

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 32 ( 私の文学的フットノート)

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 32 ( 私の文学的フットノート)

‪徂徠はここで、格物窮理と世俗の知について述べている。聖人の叡智と君子の知と人の分別知を区別している。ここでのポイントは、「古えの天子は、聡明叡智の徳有りて、天地の道に通じ、人物の性を尽くし、制作する所あり、功は神明に侔(ひと)し」(『弁名』聖)といわれる叡智である。子安氏の評釈によると、「徂徠において聖人による制作するゆえんとしてある聡明叡智は、朱子たちにとっては宇宙の哲理に貫徹する聖人の叡智である。世界の存立の究極にかかわりながら聖人の叡智をとらえることにおいて朱子も徂徠も同じである。問題はこの世界内の存在であるわれわれの知が、この叡智との内的な連関をもつのか、どうかということである。」‬

聖人の叡智と学者の知(静座という心的工夫)は切り離すことができないが、評釈にあるように、徂徠は制作者聖人を「神明に侔(ひと)し」いとする徂徠は、この聖人の制作するゆえんとしての叡智と、制作された世界内の存在としてののわれわれの知との間を切り離すのである。「叡智とは大なる聖人の智徳であり、学んで到りうるものではないのである」(子安)。そうして、徂徠によってはじめて、聖人の叡智といわれる世界の全体性にかかわる知は超越化され、その世界内の人間の知を超えるものとして位置づけられることになったという。「世界の全体性にかかわる智は、制作者聖人の叡智として超越化される」(子安)。「この聖人の‬

‪制作になる世界の経営に責任をもつ君子(為政者・在位の君子)は、先王・聖人の制作の迹に学びながら、この先王的世界の後世における再構成的な経営者(為政者)としてのチを形成していくのである」(子安) 「そして聖人の叡智との内的連関を遮断された格物は、ただ世俗の分別知を構成していくのである。」‬

‪ 「聖人の叡智」といわれる世界の全体性にかかわる知とその世界内の人間の知、このふたつの知を切り離してしまっては、独立した後者の知は自らの内部に前者の知と等価のものを作り出す危険がある。むしろふたつを切り離してはいけない。世界の全体性にかかわる知から、その世界内の人間の知が外部の位置を以ていかに自立していくかということを問うこと‬

孔子曰く、「撰(えら)んで仁に処(お)らんずば、いずくんぞ知たるをえん」と。また曰く、「知者は仁を利とす」と。これその意に謂(おも)えらく、仁のこれ尚(くわ)うることなきを知ると。知らざる者はすなわち謂えらく、天下の理を窮尽して、しかるのち仁のこれ尚うることなきを知ると。故に宗儒の格物窮理の説明あり。また窮理はもと聖人の易を作りしを賛するの言にして、学者の事に非ざるを知らず。大学のいわゆる格物とは、その事に習うの久しき、自然に得る所あり、得る所ありてしかる後、知る所始めて明らかなるを謂う。「物格(きた)りてしかるのち知至る」と。あに天下の理を窮尽するの謂いならんや。いやしくも先王の教えに()いて、その事に習うの久しきに非ずんば、すなわち知る所はみな世俗の知なり。何を以て能く仁の尚(たっと)ぶべきことを知らんや。故に孔子のいわゆる「礼を知る」「言を知る」「命を知る」「人を知る」は、みな先王の道を以てこれを言うものなり。宗儒のいわゆる格物窮理、是れを是れとし非を非とするの類は、みな世俗の智を以てこれを言うものなり‬

カオスに対応するために、こちらもカオスになればいい(酒井氏)

‪MEMO‬

‪「カオスに対応するために、こちらもカオスになればいい。ランダムに対してはランダムで。自然は常にそうなっている。完璧でなくてもいい。」(酒井氏)。「うまくいかないことも承知で、アホなことをすべきなんだ。」「どうなるんだからわからないんだから、わけわかんないことをしないと生き残れない。なんでもありだ。」(酒井氏) グローバル資本主義の無秩序に対応してこちらも無秩序になればいいのであって、「予測不能は自然の掟」だからこそ、常に学ぶ必要がある。ケインズの修正された貨幣数量説の意味がわかったような気がした。‬

仁斎論語

‪西欧の思想は、上か下か、先か後か、外か内か、によって考える三つの基底がある。他にない。(たとえば「上」x「先」x「内」= 超越性」)さてアジアはこれに四つめの基底を付け加えることができる。つまり西か東か、という基底である。相補的な意味で、西と東というべきかもしれない。東を指さすたびに西が少しづつズレていく。言い換えると、西の同一性が失われていくといえるだろうか。東を指さすたびに西が少しづつズレていくというのは、子安氏のもとで仁斎の『論語』注釈を読むとき考えたことである。‬仁斎の注釈によって、『論語』が読めるテクストになるだけでなく、それは、漢字文化圏の思想を指示することであり、そこから江戸思想から西欧近代を相対化していくことの意味を問うことになるのではないか

Godard

On juxtapositions Godard frequently makes jarring juxtapositions that are intended to prompt a new set of questions- like the third, unformatted image emerging in the mind of the viewer from the montage of two others unexpected put together.