フランス現代思想などは存在しないのは、日本思想が存在しないのと同じである。そしてイギリス思想なんてあるのという疑問がある。だけれど経済学については、イギリス経済学といわないとね、ただ「経済学」と言っただけでは不十分な感じがする。マルクスを読むときにイギリス経済学史を読んでいたのでそうおもっているのかもしれない。さてイギリス経済学のなかに、芸術の定義化・公理化と同じように、道徳を公理化して「古典派」が古典派第二公準という形で教えてこようとする科学がある。これを批判したのがケインズの仕事だったとおもう。第一公準との論理的関連性を保つが、似非数学と非難される、彼の諸差異の変数で再構成してみせた"修正された貨幣数量説"をみると、何が問題とされているのかがみえてくる。つまり、自己差異化していく近代を、公理化された言葉を以てとらえ尽くすことの無理である。近代の解釈し尽くすことの無理について考えたのは、ヨーロッパだけではない。もっとトータルに日本近世思想の言葉で学ぶことができよう。伊藤仁斎は学びの意義をはじめて言ったが、ここを批判的に継承して荻生徂徠が書いているのは、言葉で教えることの限界をよく考えた学びの意義である。わたしはそう気がついてきた。以下は、徂徠の『弁名』の言葉。「学ぶことの既に博き、故にその喩る所は、遺す所有ることなきのみ。且つ喩る所は、詳(つまびら)かに、これを説くといえども、また唯一端のみ。礼は物なり。衆義に苞塞(ほうそく)する所なり」(荻生徂徠)(しかも言葉をもって教えるというのは、たとえ詳しく説いたとしても、常に一端をしか説きえないのである。礼とは物である。多くの義(意味)で一杯になっている。巧みな言葉で説きえたとしても、とてもその義を言い尽くすことなどできることではない。子安訳)
市井の人
乱世だから何を言っても無駄か、何を言っても無駄だから乱世なのか。兎角今日が乱世である。乱世でものを考える人は隠遁者でも草莽の臣でもない。近世の遠方からきた市井の人である
アジアの多元主義
なぜ安倍はあんなに大きな顏をしているのか?なぜ自衛隊は平然と海外へ出て行くの?私はプロではありません。間違いを恐れずにいうと、これは解釈改憲の容認?自衛隊を海外に出すとした解釈改憲が現実化したこの現在を問題にせず、改憲に対しては憲法が守られている現状を前提に拒否する?これは矛盾ではないかという指摘があります。解釈改憲への迎合が起きているならば問題です。自衛隊が海外に出ることを許さず、対策として、米中関係によって周縁化され危機に直面し得る安倍政権にたいして、平和憲法を利用して中国との関係改善の要求に全力を尽くすときが今ではないでしょうか。アジアにおける民主主義とは何かを話しあうこと。困難でしょうが、この対話がアジアの多元主義の方向づけを為すと同時に安倍政権の実質的敗北となるに違いありません
物の見方について
敢えて言うのですが、『教育勅語』に反対する人は、それを推進しようとしている人と同じようなことを言ってるように聞こえてしまうのです。口先では反対しているけど、裏で賛成しているんじゃないかと疑うことも。問題なのは、近代から近世をみる方向性がどちらにも自然に共有されている前提ですね。近世から近代をみてやろうという方向性がないのです。それでは物の見方を見直すことができません。『教育勅語』の近代を相対化できません。物の見方を見直すのが難しいのは物の見方がネイティブ化しているからと子安氏は問題提起します。物の見方は言語に住んでいます。不可避の他者を見出すのが難しいとしたら、その理由は言語が物の見方と共にネイティブ化しているから。ネイティブ化された物の見方を以て、物の見方のネイティブ化を推進した『教育勅語』を批判できるのかということについてまだ誰も問題として指摘していません。
階級
チョムスキーがどこかで書いていたが、アメリカはずっと「無階級社会」という幻想を抱えているらしい。だが、フェミニスト系論客がトランプを支持する階級の存在を分析するようになったのである。われわれ学生にルカーチを読ませた労働法ゼミの教授の自問自答の言葉を思い出す。敗戦の荒廃からこの国を豊かにするのだというおもいは階級意識におけるものとして成り立っているといえるのか?古典ギリシャ語の文献をもち現在ヒュームの現文を読んでいて、最上階にある総評の事務所から眼下のデモの様子を眺めている自分はその階級に属していないにもかかわらず、階級について語ることができるのか?ルカーチからみて、ジョイス「ユリシーズ」には「階級意識」が欠如していて、ブルジョア的意識を反映した破片という評判の悪い非難がある。たしかにベンヤミンと同じものを見ているが、意味づけが全然ちがうというか。これでは、社会的存在は意識を決定するという公式的適用という感じもしたのだけれど、かれの文学に現れた階級意識という問題意識の立て方は意味がないわけではなかった。ただそれは、国民文学に現れた階級意識の存在を問うべきだったと考えるようになったのは、津田左右吉を読むようになったからかもしれない。階級についての意識の問題は、昨日の講義で言及された石田梅岩によるものだけれども...