フレームワークとクローズアップ

‪クローズアップしているがフレームワークをともなわないのが安倍ちゃんの<ぼくちゃん何も悪くないもんねー>。フレームワークはあるのにクローズアップできないのが安倍ちゃんの<一億総活躍>。フレームワークは不在だしクローズアップも為されないのが安倍ちゃんのアジアにおけるこのクニの意味づけ

セザンヌ

CÉZANNE

この絵をみたのは中学生のときで、たしかデパートの展示室でみた。なんの距離もなく、セザンヌにおける内部の中に立っているあの感覚。ここにおいて自分の感覚が方向づけられてしまったものだから、この内部から、正直言うと、別のものの見方を以てその自分の感覚をみることが長い間難しかった。ウィットゲンシュタインの表象批判を徹底的にやるロンドンに行くまでは、ポストモダニズムの解体的な批評精神なんかはそう簡単に受け入れることができなかったのだ...

岡倉天心

私はきちんと理解しているのかどうかわかりませんけれど、中国文化と西欧文化が出会った場所は沢山あるのですが、岡倉天心風にいうと、この列島はその一番端っこに位置しています。様々な文化の痕跡が流れ着いてきた、文明博物館みたいなのですね。絶対の死に切った過去たちの島というか。もっと観念化すると、「美しい国」という唱和によっても過去が蘇ることがあり得ない、だからこそ、この端っこにおいてこそ、彼方側に横わたる、まだ白紙となっているままの、アジアと西欧と同じ大きさをもった他者の存在を感じることのできる場所ではないでしょうか。

演劇と政治

「偽り以外に何があるだろうか?」 (カフカ「創作ノート」)芸術は真実と嘘の両方で成り立つ。カフカには、真をいう嘘と嘘をいう嘘の区別はない。政治の場合は政治が政治であるためには真実か嘘しかない。政治の領域に芸術を持ち込むべきでないと演劇界のピンタは政治家に告げた。

「偽り以外に何があるだろうか?」 (カフカ「創作ノート」)芸術は真実と嘘の両方で成り立つ。カフカには、真をいう嘘と嘘をいう嘘の区別はない。政治の場合は政治が政治であるためには真実か嘘しかない。政治の領域に芸術を持ち込むべきでないと演劇界のピンタは政治家に告げた「偽り以外に何があるだろうか?」 (カフカ「創作ノート」)芸術は真実と嘘の両方で成り立つ。カフカには、真をいう嘘と嘘をいう嘘の区別はない。政治の場合は政治が政治であるためには真実か嘘しかない。政治の領域に芸術を持ち込むべきでないと演劇界のピンタは政治家に告げた「偽り以外に何があるだろうか?」 (カフカ「創作ノート」)芸術は真実と嘘の両方で成り立つ。カフカには、真をいう嘘と嘘をいう嘘の区別はない。政治の場合は政治が政治であるためには真実か嘘しかない。政治の領域に芸術を持ち込むべきでないと演劇界のピンタは政治家に告げた

説明できないものを説明できないくせに勝手に決めるな!

<説明できないものを説明できないくせに勝手に決めるな!>という若者たちの抗議はその通りだ。いくら内閣支持率急落でも、つぎの<説明できないもの>を防ぐことができなければ全く意味がない

アジアの民主主義

トランプ大統領に対してあるアメリカ司法を見れば、憲法の番人の最高裁は一度も存在しなかったと言わざるを得ないですし、アベノミックスの籠の中の日銀それ自身がゼロになる前に、国連中心主義の国会もなくなってしまったのでしょうか。今回は野党は大変だったのです。だが敢えていうのですが、野党は存在しても、問題なのは、共にあるアジアの民主主義のあり方を考えて、政権の方向を問いただす声がまったく存在しないのです。たとえば、「よろしい、共謀罪は五輪に必要かもしれません、そうだとしましょう、しかしこの形は、互いに影響し合うアジアの民主主義の足を引っ張ることになりはしませんか?」ということもできたのです。

原初的テクストを読む

17世紀の原初的テクストの注釈をいかに読めるようにするかこの作業を四年間傍らでみてきた印象を書くと、アマチュアの立場だからみえることもある。注釈を読むこととは、「旅」というものを喚起する、起源からの「変容」かなと思うようになった。‪逆に、注釈が旅を発明したとかね (教典を読む巡礼の旅はどうなのよ?)‬ それは、現代のために現代を読むだけの現代語「翻訳」とは違う。また滅んでしまったものだとしても声の力で蘇るよという‪こちらをその気にさせる口語訳の本質‬にもあらず。寧ろそれは現代を空気を読むようには読まないし、滅んでしまったものも無理に読むことはないのである。