一億総オリンピック、ここから1を引いてくれ

‪久米の言っている内容は正しいとおもいます。「一億総オリンピック病」という言い方が含む問題ですが、これについて考えなかったわけではないでしょう。どうしても「病」という一字を使わなければ、<この国は病んでいる>という事実を伝えることが難しいと思ったのかもしれませんが、私ならば、「一億総オリンピック、ここから1を引いてくれ」と訴えます。

ジャンヌ・モロー

ジャンヌ・モローは、デユラスを演じた映画と共にダブリンに来た。祖母がアイリッシュだったことを聴衆に明かした。本当に何も無いのに作家からよく言われた。「顔にかいてあるわ、わかってるのよ、絶望してるのでしょう」。人間は思考するためにひとりになる時間が必要だと言っていた‬

左翼能楽‬

‪左翼能楽


都民ファシスト党代表「降臨術の教祖さまをお連れしました。さあ、厄介な天皇の問題について総理にご助言を」‬

‪教祖「わたしはマルヤママサオ。天皇のことは全部極右翼にゆだねよ、そうすれば自ずと消滅するだろう」‬

官房長官「つまみだせ!」‬

‪安倍「待て...うまくいくかもしれない」‬

永遠性の意味を問う ー誰が永遠性を語るのか?

永遠性の意味を問うー誰が永遠性を語るのか?


ハンナ・アーレントは観念としての永遠性の起源についてこういう。「哲学者が永遠なるものを発見したのは、彼らが、ポリスはどの程度まで不死であるのか、それどころか、どの程度までつづくのかというもっともな疑念を抱いていたからである。そして、この発見の衝撃はあまりに大きかったので、不死への努力を全て見下さざるを得なかったのだろう。」(『人間の条件』3)。アーレントによれば、永遠性の観念はポリスの経験をもつヨーロッパにしかないということである。ところで、「人間への信仰は、人間の存在を可能ならしめる神性への信仰を前提としている 」(ヤスパース)。シュタイナーの話題が出たとき、「神性」とは、永遠性の観念のことではないかという話を子安氏から伺ったことがある。もしそうだとしたら、アジアにおいては「永遠性」の観念がないというのだから、日本人にとって人間への信仰が不可能となってしまうということなのかなどと現在考える。しかしそうではあるまい。アーレントと同様に、知識人として、ヤスパースは、ヨーロッパの特殊性について語っているのではないだろう。アジアでもヨーロッパと同様に、普遍としての、人間への信仰が成り立つはずである。この時代、人間への信仰は何と結びつくというのか?ヤスパースの研究者もおられるので何か恐縮であるが、拾い読みしたこの言葉をここに書いておこう。「我々は結局のところ、かつてないほど依存し合っている個人個人にすぎませんが、同時に根源としての我々自身に投げ戻されています。めいめいが自己に投げ戻されているのです。 肝心なのは自分だということをめいめいが知らなければなりません」。ここから、人間への信仰は、一応我々自身と同一化しているものと結びつくというふうに読み取れる(そういう読み方が可能だということ。)ただし、そうして我々自身は、国家との同一化に送り出されるという可能性もある。しかしヤスパースは、やはり普遍主義の要請から、愛国心の同一性を否定するか、容認しないのではあるまいか。(だからたとえば今日のナショナルなものとしての憲法という捉え方は知識人において不可能なものであるとおもう。) 8月15日がやってくるわけであるが、8月の最初の日に、東アジアにおけるグローバルデモクラシーの意味を考えてきたように、漢字文化圏におけるポリス的開かれた永遠性の意味を考えているのであった...

寸劇 「記憶にありません」

‪‬寸劇


‪野党梟猫党議員「総理の記憶を盗んでいるその悪戯な妖精はどうしたら退治できるのですか?」‬

‪安倍「妖精にギネスビールを飲ませて眠らせてしまうと、私の記憶が...」‬

‪議員「蘇るのですか!?」‬

‪安倍「妖精の夢の中から直ぐに別の記憶泥棒の妖精があらわれるんです」‬

21世紀にフーコを読むことの意味

‪「言葉と物」を読むと、単純なものは、互いに切り離せぬ関係を以て、複雑な表象をもつものから自立している。此処から、思考を構成する四つのもの(分節、主辞-属辞関係、指示、派生)へ展開するというような書き方をフーコはする。画家がそいうふうに描いていくことになったというべきか。ネグリ帝国論(世界資本主義v.s.マルチチュード)から、恰も世界史の必然性を以て(?)、柄谷グローバル帝国論 (アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国)が展開する今日の言説は、これを反復しているだけだ

「シュレーバー回想記」

小池百合子の「ラジオ体操は日本人のDNAに刻まれた体操である!」宣言。元々ラジオ体操は『シュレーバー回想録』を書いた彼の父親が発明した体操という。ラジオ体操は音楽がかかるとどうしようもなく身体が動いてしまう、吉田松陰の心の中心から洗脳してくるように、身体を従順にしてくるテロリズム

シュレーバー回想記」に芸術の線と点が織りなすヴィジオンがある。吉本隆明の書評を読んだ後に、その最初の翻訳を読んだのを覚えている。フロイドは「シュレーバー回想記」を分析した。今日で言うテクストとしてそれを読んで分析の言葉を書いたのである。私の関心は、フロイドは彼の精神分析の枠組みを成り立たせなくなるような過剰を隠蔽しなかった理由である。それは、神話が支配者がその支配を正当化するには都合の悪い反逆の記述を残す場合と同じなのだろうか ?パラレルに、そう考えてよいのだろうか?