『仁斎論語』(子安氏)からの引用

‪「子、魯の大師に楽を語(つ)げて曰く、楽はそれ知るべし。始め作(おこ)るとき翕如(きゅうじょ)たり。これ放(はな)つときは純如たり。繹如(えきじょ)たり。以て成る。」(『論語』八佾)‬


‪•「孔子は音楽について魯の楽官長に語られた。...」。2500年前の音楽隊の様子が記されている。これについて仁斎はつぎのように「注解」「大意」をあたえている(子安宣邦氏訳、『仁斎論語』127頁)。‬


‪• 「大師は学官の名である。翕は合うこと、集まることである。はじめ八種の楽器の気が集まって始まる。従は縦字とし、放つ意である。純は和することである。音楽がすでに始まると、相合して背くことはない。食物の一味が補い合い、調和するのと同じである。繹は相続いて絶えないこと、あたかも珠玉が貫かれているようである。成るとは楽の終わりである。音楽の演奏とはこのようである。それゆえ人の心にもそのように感じられるのである」(注解)‬

‪•「当時すでに音楽は完全な形で伝らず、楽官はただ五音六律を論じることをして、音楽の調べが自然の秩序をもち、その調和は糸豪(しごう)の間にあることを知らないありさまであった。ましてや音楽が人の心性情意の微に通じるものであることを理解していなかった。人間世界における音楽のあり方は、ちょうど船における柁のごとく、柁の転ずるに従って船は左に向き、あるいは退くようである。世の治乱盛裳は常に音楽と相通じている。それゆえ夫子は大師に演奏のいちいちを教えられたのである。」(大意)‬


『仁斎論語』

‪「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」(デリダ)‬


‪どうかそのように勿体ぶらないで、アルファベット文字とは何ですかズバリ教えてください、と言われてもデリダは困ってしまうだろう!?ここでは、書記言語と相補的にかんがえることがもとめられているようにおもう。考える材料は身近かにある。遥か遠くギリシャやエジプトに行かなくてもいい。漢字を考えることからはじめることができよう。ただし、漢字というのは、アルファベット文字とかなり違う感じがする。ここでは、(「書かれた文字」にそって)原初的に考えることと、(現象学的な「声」にそって)起源的に考えることの差異があり、この差異をかんがえるためには発想の大転換が必要である。だがこれは、わたしのようなものには十分な説得を以て説明ができない、とてつもなく大きな問題である。だけれど、『論語』の現代語訳とはなにかを考えることによって不十分ながら日本語についてみえてくるものが若干あるかもしれないとおもっている。前置きが長くなったが、子安氏『仁斎論語』によりながら、公治長第五(第27章)の言葉をひくと、「子曰、十室之邑、必有忠信如丘者。不如丘之好学也」とある。ここからつぎのような書き下し文が構成される。「子の曰く、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘(きゅう)が如き者有り。丘の学を好むに如(し)かず。」(丘(きゅう)は孔子自身のこと)。さて、ここから遡って、「子曰、十室之邑、必有忠信如丘者。不如丘之好学也」を復元?することがいつから難しくなったのだろうか?これをずっと漢文訓読法にしたがって読んでいるだけだったら復元できたかもしれない。だが、子安氏が講義のときに触れていたことでわたしが正確に理解しているかわからないが、日本知識人は漢字の文を仮名をいれて展開し、それを繰り返し書いた。反復できなくなる反復が生じたのであるが、日本語の成り立ちについて考えさせる。ところで現代語訳になればなるほど、平仮名が占めてくる。だからといって、内容が充実するわけではないのである。思想についても同様のことがいえる。日本思想は漢字の受容から千年かかって17世紀に成熟のピークをむかえる。清沢満之のような例外を別として、20世紀の思想は、17世紀の「人」の日常の卑近から語りはじめたラジカリズムの思想を保っているだろうか?)最後に、仁斎の注解と大意と論注から構成した現代語訳は、思考の柔軟性を以て、構成されている。「孔子がこういわれた。十軒ほどの小さな村におわたしほどの忠信(まごころ)の人はいるだろう。だがわたしほど学を好む者はない。」。子安氏の評釈によると、「仁斎は孔子の学を人倫日用における道徳の学としているが、彼はなお孔子を生知の聖人とする聖人観を朱子たちとともにしている。」「この聖人観は、この孔子の言葉から、われわれ身近な孔子、学ぶことが好きな孔子を読むことを妨げている。孔子はこういっているのである。『どんな小さな村にも、わたしほどの実直者はいるだろうが、わたしほど学ぶことの好きな者はいないよ』」。これは、21世紀は、17世紀の「人」の卑近から語りはじめた画期的視点を保っているのかと問いながら、再び「世界史」の教説に陥る儒教に基づくグローバル資本主義論をただす批判の言葉としての意味をもっている、と、‪わたしが理解しているとしてもそれほど禁じられた"深読み"ではないだろう‬

自戒

‪自戒をこめて書くことだけれど、死者の間に、生者の間にヒエラルキーの差別を組織化する近代によって、差別がもたらされることを理解できないのは、どうも平等を否定する権力に抵抗している感じがしないし、また幾ら民衆の側に立っていても反権力であることの意味をしっかりもっていないからではないか‬

アイルランド

北アイルランドと南アイルランドという言い方に欺瞞を感じるアメリカ人は少なからずいる。現実は国境問題が存在する。英国のEU離脱の一国主義に対して、共和国側のナショナル・アイデンティティの問いが呟かれる?国境の向こう側は、EUの「イギリス」ならばわれわれは文句も言えまい。そうして今日まで譲歩してきたのに、今度は露骨にイギリスがやってくるのかと‬

ミルトン『失楽園』

‪ミルトン『失楽園』は、アレゴリーとして読む必然がない。イギリスの時代背景を読むとる必要がないとする意見もある。ミルトンは、シェークスピア的意味での悲劇的リアリズムの近代を以て、自身への問いー私は何者かーを普遍的に確立した。このことをはっきりと呈示できた。人間とは状態Xの関数である、と。ここから、ミルトンは、超越界の天使と神々に対して「自由に喋らせてくれ」とたたかいを挑むキャラクターをつくりだしたのである‬。その言葉が何を意味しているのかわからないが、「客観」をいわなければやっていけなくなったのだろう、その言葉によって今日の若い女性達が訴える生き方のことをおもう

寸劇 主観

寸劇 主観


ガス官房長官「共同主観に基づく質問に答えるつもりはない」


フクロウ猫記者「共同主観に基づいて質問していませんよ。共同幻想に基づく質問なのに答えないというのはどういうことですか」


ガス官房長官「問題ない。わたしの担当ではないし」

思考のリズム - 子安『仁斎論語』

‪昨夜は、なんと、漢文を読んでいる夢を初めてみましたね。子安先生『仁斎論語』は章ごとに、<訳>と<注解>と<大意>と<論注>と<評釈>で構成されています。それぞれが異なる思考のセリー(系列)とリズムをもっているようです。仁斎の<注解>は精緻を以て語られ、<大意>は詩の如くレトリックを以て語られています。<論注>ではラディカルな思想が一貫性を以て展開しています。決して無味乾燥に陥らず、形而上学存在論の深度に絡みとられないというか。子安先生の<訳><評釈>においても、仁斎の思考のリズムをともなっているのではないだろうかと考えているところです...