カズオ・イシグロ

‪主人に尽くす執事の姿に英国貴族に従属する全階級が表現されている、カズオ・イシグロの原作の映画化「日の名残り」は、アイルランドに行って初めて理解できた。後にフリールがこの点を言及している文を読んだ。人が人としてあるために何が要請されるのかを問いかけている。この問題は現在の日本人の問題だと思う‬。


‪イシグロ・カジオのノーベル文学賞受賞は、この二十年間金融のことしか考えられなかった英国民に他のことを考える人間が存在することを知らせることになるだろう。ラッセルとは異なり、最近のノーベル文学賞作家は多様である。シェーマス・ヒーニーは北アイルランドの詩人、ハロルド・ピンタはポーランドユダヤ系の劇作家‬

仁斎論語

‪折角新しい政党をはじめたのになあ、かくも正統性の教説に絡みとられるのをみると、一番最初に誰が正統性を言ったか、2500年前に遡って考える必要があるというものだ。『論語』の最初(学而)のいくつかの章は既に、孔子の死後の、弟子たちの誰が孔子の正統な継承者かを示すいわばポスト孔子の言説という性格をもつ。弟子とはなんだろうか?先進を読むと、顔淵こそは孔子のもっとも信頼する弟子だったが、孔子は彼の死に直面している。「顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天予(われ)を滅ぼせり。天予を滅ぼせり。」これについて、17世紀の仁斎は、孔子顔子の死するのをみて、「学のまさに絶えんとするを歎ずるなり」と注釈した。弟子の問題とは学の断絶にかかわる問題だとわかる。孔子は天から見放されたとする嘆きに、ほかならない、孔子にある天への信(信頼)を読み出すことができよう。「天への信において孔子は立つゆえに、その挫折は天に見放されたものの嘆きとしてあるのである」(子安宣邦『思想史家が読む論語』2010)。さてここで問題となるのは、天と孔子にどんなイメージを与えるかである。京都市井の学者仁斎が読みだそうとするのは、朱子学的に「天理」とするような、天に同一化している聖人孔子ではない。彼は、人は人としてあるためには?を問うたのである。だからといって、天から独立している孔子をみているわけでもない。天は高さをもっている。この高さとかかわることがなければ市民の知識革命は不可能だろう。そうして、天の領域と人の領域の間の往還運動を表象するイメージがおそらく大切だということに気がついた。出来た絵を‬見る。映像が観念に先行する。‬伊藤仁斎の天の思想(『語孟字義』)について考えることになった...

反緊縮<リベラリズム>の選択

‪接尾語とは、それ自身は単独で用いられず、常に他の単語の後に結合して,色々の意味を添える。接尾語<リベラリズム>が溢れている、対抗メディアのネット世界から選挙がみえてくる。自民党の統合<リベラリズム>も、希望党の排除<リベラリズム>も、みえてくるのだけれど、まだ、反緊縮<リベラリズム>の選択だけははっきりとみえてこない‬んだね

国家理性

‪小池Yは原子力規制委員会に対して異論を言わないと発言した。原発災害は誰もがそれが再び起きる可能性を知っている。小池Yはそのときには責任をとるつもりがないのだ。では国の誰が責任をとるのか?原子力規制委員会は再稼働を決定したのは自分でないと言い続けだろう。そうして国は間違いをおかさないとばかり国は責任をとることはないのだろうか?もしそうならば、原発体制は無責任体制の完成如きものであり、その中心に国家理性の高慢があるといわれても仕方ない‬。だけれど外の視点に立つとき、その高慢は時代遅れの一国主義的孤立と言わざるを得ないのだけれど

立憲はほんとうにそれほど立憲なのか

整理がつきませんが、不安におもうことを書くと、三分の二を取れば安倍政権は改憲をすすめて、自衛隊を外に出すでしょうし、三分の二を取れなくとも安倍政権は解釈改憲自衛隊を外に出すことができるのでしょう。護憲派解釈改憲の敗北を繰り返すのかと心配です。これに関連してもうひとつ気掛かりなのは、米軍と共同で行った自衛隊北朝鮮に対する武力の威嚇が憲法違反だとはっきり指摘されなかったこと、安倍の改憲に反対と言っていたこと。この点について、護憲派は安倍の解釈改憲を承認しているとみる見方があって、もしこの見方が正しいとすれば、「立憲」の二文字で何かを積極的に言いあらわしているとはどうしても思えないのです。もちろん憲法中心でやっていく方向は正しいです。ただし「改憲」後に、立憲民主党社民党共産党は力を十分に発揮できるようにするためには、現在のように憲法オンリーでは十分なのだろうか大丈夫かと心配しています。‪政治に疎い私の過ぎたる心配かもしれません。立憲は本当にそれほど立憲なのだろうかと‬

マルクスを読む宇野弘蔵を読む柄谷行人

マルクスを読む宇野弘蔵を読む柄谷行人


「金融資本の時代としての転化を示した後も、別に新たなる形態を展開するわけでは無い。金融資本の時代を特徴づける、株式資本の産業の普及も、純粋の資本主義社会において、すでに論理的には展開せられざるをえない」(宇野弘蔵)

あらためて宇野の文を読むと、純粋資本主義が成り立っているといわれるイギリスにおける19世紀が半ば生きていており半ば死んでいるという感じで、19世紀の『資本論』の後に生きる20世紀のわれわれがいかに『資本論』に正当性を与えるのかということにこだわった教説の知を超えるものではないとおもう。純粋とは何か?抽象的規範「こうあらねばならない」とする純粋である。再び宇野を読んだ、21世紀の柄谷行人においてみられるように、(世界帝国の構造を発見した功績にもかかわらず)、抽象的規範「こうあらねばならない」を『資本論』の上に書く自己演出のほうが大事となる。全部このテクストにに書いてあるという大前提で、柄谷の抽象的規範は、『資本論』に書いてはいない"国家"の役割を再発見してみせる。結局付加されているのだが。20世紀を分析するためには19世紀を分析した本には何も書かれてはいないことを証明してしまうのであるが、とにかく、はじめて私はこう読んだとばかり、グローバル世界を解釈する権力の王冠をもとうとする。現に、一定の影響力を以て、アジアの知識人たちが柄谷を読んでいるときいている。12世紀における互酬性の交換様式がいかに成り立っていたのか、国家を準備していくのかをよく説明している彼の世界帝国(中国)の教説は知的に分析されていて大変興味深い。これは、民生主義の全体において西欧にしか知の歴史が成り立たたないとするというヘーゲル世界史の解体である。だけれど、現在切実に考えなければならない問題は、『資本論』を読む<帝国の構造>の知は、21世紀の民主アジアの経験を無意味にしてしまうことはないだろうかということである。

『論語』の隠者たち

‪『論語』は隠者をえがいている。微子第十八の隠者は孔子の弟子にこう告げる。流れるものは戻ることがないように、天下もまたひたすら乱れていくのだから、あなたは孔子とともにこの流れを止めることはできない。「この世を避けて野を耕すわれわれに従った方がましではないか」と。『論語』の隠者をどう意味づけるか?子安先生が読み解くように、何を言っても無駄であるというほどの乱世の時代の国内亡命者と解した上で、隠者は現れるときはいきなり孔子の前にあらわれるところから、孔子の自身の中で絶えず繰り返された心の声を意味していると考えられる。『論語』は、権力とたたかう知識人が2500年間、「したたかに」隠者との間で内的対話を行なってきた事実を証言しているというのである。17世紀の伊藤仁斎はこういう。隠者たちは「天下を変えることを欲している。聖人孔子は天下を変えることを欲せられてはいない。天下を変えることを欲するものは、私の道を天下に強いるものである。天下を変えることを欲しないものは、天下をもって天下を治めようとするのである。思うに天下は人をもって天下であり、人を去って天下であることはない。それゆえ聖人は天下は人をもって天下であり、人を去って天下であることはない。それゆえ聖人は天下すなわち人とともに楽しみ、天下すなわち人とともに憂える。いまだかつて天下すなわち人を避けて、独りわが身を潔(いさぎよ)くするようなことはない。」(子安先生訳、講義レジュメより引用)。これは凄い言葉だ。天下すなわち人、と言い切る (朱子的「天人合一」の存在論を解体した後に要請されてくる理念性?)‬普遍の道に立つとき、革命の道しかないのか。仁斎は他の道をいう。人の道である。仁斎は孔子とともに、隠者との対自的ダイアローグを以て、宇宙第一の場所を語る。17世紀の思想は、天下すなわち他者との対他的関係の絶対性を語るのである。‬