ob-jet

‪オブジェといえば、フランス語訳はob-jetと表記されていている(obは方向性を表し、jetは‘投げる’の意)。ヘーゲル精神現象学からブルジョア的所有の修辞をとりのぞくとね、外部に行くか(スキゾ的アンチ生産的生産の方向性)、内部に行くのか(パラノア的表象の方向性)の差異はあるが、Dadとsurréalismeの芸術について語っていると読めると思ってしまう。もちろん簡単にそうだと言いたくないところがあるけれど、「精神」から逸脱してしまうアナーキーな解釈を孕んでいるとおもう。ポストモダン的再構成ではあるんだけど

...‪ ‪l’esprit devient ob-jet, car il est ce mouvement de devenir à son un autre, i.e. ob-jet de son Soi, et de sursemer cet être-autre. Et l’on appelle expérience justement ce mouvement où l’immédiat, le non-expérimenté, I.e. l’abstrait, que ce soit de l’être sensible ou du simple seulement pensé, s’aliène, et ensuite fait retour à soi á partir de cette aliénation, et du coup se présente maintenant seulement dans son effectivité et vérité, tout comme il est propriété de la conscience ‬

‪ーHegel “ Phénoménologie de l’Esprit”‬

以前でもあり以降でもある時点にやってきた(on vient à un moment qui est avant et après )

‪以前でもあり以降でもある時点にやってきた(on vient à un moment qui est avant et après )

‪以前でもあり以降でもある時点にやってきた(on vient à un moment qui est avant et après )...‬ ‪12世紀のアジアにおける思想革命の出現は17世紀の知識革命より前であるのは、仁斎論語を読んだ後にはじめて分かった。更に、このことも書いて置こう。‬ ‪言説「朱子鬼神論」は、言説「グローバル帝国論」以前であり言説「ポスト構造主義」以降でもある時点にやってきたのであった。‬ ‪「朱子鬼神論」の内容がどういうものであれ、意味の中心に赴くことなく、グローバルな支配的見方のなかでそれと違う見方がもつその位置と機能から、「世界史」的言説を拒んで、他者としてのイスラムからの声- 卑近としての隣の国どうしの関係をうちたてることの意義-を受け入れている。‬

und wissen konnte, daß man in einem Moment auftaucht, der ein Vorher und ein Nachher ist

歴史の歴史

‪歴史の歴史

近代批判の<68>年以降、思想は思想の歴史をはじめて問題にすることができた。思想の歴史は50年たった。ラッセル『西洋哲学史』があったが、それはアジアのものではなかった。思想の歴史は1968年から、<思想の歴史>の歴史をもった。歴史の歴史とはこのことである。この歴史の中で、何が重要であり何がそれほど重要ではないのか、19世紀の見方に、また20世紀の見方に戻らない形で考えを何とかまとめることができた。思想の歴史についてまだ分からないことがあるとはいえ、繋がりの線を引くことができた。カントの出現がマルクス‬よりも前だと分かっている。ヘーゲルの出現がマルクスよりも前だということも。マルクスに先行したものがマルクスの問題を正しく相対化できる。それは、明治維新に先行する時代が存在したこと、既にその時代は想定される明治維新のあり方とその展開を批判していたことと同じである。かくも、歴史の歴史は歴史に介入しているほど豊かなものになっているし、複雑でもあり波乱に富んでいた。だけれどヨーロッパのOccupy Wall StreetであったG20ロンドン開催の抗議の年、2009年に東京に戻ったときは、思想の歴史はお喋りの対象になっていたが、決して語られていない...。 いまなお、近代の歴史を神話化したような明治維新150年の作り物語を祝っているという有様で、市民的不服従にとって意味のある思想の歴史において何を拒んで何を受け入れたのかもわかっていないようである。

市民的服従

‪公害裁判支援の運動のときにおもったのだけれど、市民的不服従はわれわれの問題ではない。国の問題である。抗議をやめてしまう市民的服従がわれわれの問題なのかもしれない。ここで、議論があるが国家的体制と考えてみて比較してみると、幕藩体制の政治的議論が危険だった時代は、民を安心させられない国に対しては道徳の領域での責任を問うことができた。「信なければ立たず」と。政治的自由は諦めるしかなかったが、支配者(武士政権)に服従していくかわりに、内面をもつことによって自立的な思想の形成が成り立ったのであった。さて再び現代に戻ってくると、戦後の問題は何だろうか?政治的自由はあるが、市民的不服従が少なく、市民的服従ならば服従しているで、巻かれたら巻き返せと自分たちの思想を形成しようとしているかといえばそういうことは殆どなかったようにみえることである。これは「日本人」の問題ではなく、戦後の問題として考えるべき問題だとおもう‬

ヘーゲル

‪「ヘーゲルが発見すると同時に神秘主義で包んでしまった理論の合理性を、印刷物数ページで通常の知性も持ち主に理解できるように提示できたら、どんなにいいだろう」(マルクス)。丸山真男は『法の哲学』を読んで講座派を包摂した市民社会の自由を合理的に考えようとしたけど、「内なる何々」の神秘主義に絡み取られた。現在はその市民社会論がダメならば国家と民族に戻って考えてみようみたいな「世界史」の神秘主義に絡み取られている。これでもやはり何も見えてこない。どう考えていけばいいのだろうか?ヘーゲル精神現象学』の読みによって、マルクスの理解が定まるのだろう。未だヘーゲルの世界史しかもたないからマルクスの思考が成り立っていないのでは?どんな素材でも構わないのだが、投射される思考の映像をみるためにはスクリーンが必要だ。しかし現在だれがヘーゲルを教えてくれるのか?30年前と比べてみると現在は共産主義全体主義、資本主義がすっかり議論されなくなったといわれるが、果たしてそうだろうか。30年前と違うスクリーンでみようとしているということではないのかな。アゴラ(広場)に来てワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨする市民について語った小田実の言葉を考える。ジジェクが言うのとは違う意味で、グローバル資本主義の問題を国家と民族の危機として感じるのではなくて、寧ろ地球の終焉として感じとるという危機感は、21世紀の市民の登場によって成り立つ歴史的なことではないのかな‬

ヘーゲル『精神現象学』

‪L’esprit de ce monde est l’essence spirituelle pénétrée par une autoconscience qui es (sait) immédiatement présente comme vetted ( auto conscience) étant pour soi, et sait l’essence comme une effectivité qui lui fait face. Mais l’être-là de ce monde, tout comme l’effectivité de l’autoconscience, repose sur le mouvement ...‬

‪教養の世界を生きる精神は、自己意識の浸透した精神的存在であって、自分が一個の自立的な存在であることをあるがままの姿として認め、また、確固たる現実が自分の向こうにあることも知っている。しかし、この世界のあり方と自己意識の現実は、自己意識が自分の人格を放棄し、もって自分の世界を生み出すとともに、この世界を自分の意にそぐわぬものと考え、それを自分の支配下に置こうとするような運動に支えられている。が、自分の自立性を断念することは現実を生み出すことであり、それによって意識は直接に現実を支配下に置くことができる。別の言い方をすれば、自己意識は自分を疎外するかぎりで目に見えるなにものかになるのだ。... 精神を欠いた法の普遍性は、性格上や生活上のどんな自然のあり方をも受けいれ、それを正当なものと認知する。が、ここにいう普遍性は、精神に運動を通じてうみだされた普遍性であって、だかこそ現実性をもつのである。ここで個人に価値と現実性をもたらすものこそ、「教養」である。個人の根源的な本性と本体は、自然のままのあり方を疎外していく精神である。(長谷川訳)‬

トマス・マーフィー『ジリ・コンサート』The Gigli Concert

‪The Gigli Concert

ベートヴェンなんかはヘーゲルがいう「教養 」Die Bildung の「疎外された精神」だろう。問題はオペラとの関わりである。イタリア人のようにオペラのアリアを歌いたいと望むダブリン中産階級のサラリーマンを描いた芝居を見たことがある。彼はテープレコーダーを持参して精神分析家のところに来る。アリアの録音テープを流して口をパクパクする。『ジリ・コンサート』はトマス・マーフィーという労働者階級出身の脚本家が書いた芝居で、アイルランド人の英語を距離なく喋ってみたいとおもう自分と重ねて舞台をみていた(わたしは『ユリシーズ』をドラマ化したラジオ演劇のテープをきいていた)。芝居はなにを問うていたのだろうか。島の持主であった魔女シコラクスの息子キャリバンのように、「人格を放棄して目に見える何者かになる」とき、「自然のありのままのあり方」なのかと問うた。それだけではない。それを問うナショナリズムも問う‬ていたと私は思うのである