『ベルリン・天使の詩』Der Himmel über Berlin 1987

ベルリン・天使の詩』Der Himmel über Berlin 1987

‪『ベルリン・天使の詩』は本当に素晴らしい映画だった。今世紀の映画史に言及されないのはなんだか寂しい。ヴェンダースは前の世代のヌーヴェルバーグの映画で相撲を取っていた中途半端な所があったからね。だけれどそのヌーヴェルバーグも忘れられてきている。‪『ベルリン・天使の詩』で面白いのは、天使はいきなり天使だったことが見破られてしまうところかな。ちなみに、天使だった過去を見破るピーターフォークはジョン・カサヴェテスと共にアメリカ映画のインディーズの中心にいた俳優だった。見破られた天使役のブルーノガンツはスイスの俳優とは知らない人が多いのではないか(ドイツで活躍するとドイツ人と考えられてしまうものなのだろう。)‬『ベルリン・天使の詩』について柄谷行人が書いた批評文を読んだ記憶がある。天使は、歴史の必然を見渡す存在だったのだけれどー子供たちだけがその姿を見ることができるー、”命懸けの飛躍?“的落下のあと、世界-内-存在のポストモダン的な偶然しかない街に徘徊する。そこからヘーゲル的にまとめようとしていたように思うが、なにを言っていたのか覚えていない。蓮實重彦ならば、「ベルリンの壁」崩壊の意味について映画の外のことが書かれているだけだと言うだろうが、映画評論家はその通りのようなことを感想として言っていた。確かにそうなのだ。そして現在柄谷は再び塔ー歴史の必然を見渡す世界史の構造の高みーに帰って行ったようだ。わたしの関心はむしろ鬼神論的なもの。まだ魂が存続しているのは何かの理由があるのだろう。おそらく人間存在のあり方にその理由があるかもしれない、と、天使の旅は続く。‬ 映画では、人間が魂を観察するのではなく、魂が人間を観察していた。何にせよ、卑近なものを見よ、と、映画の思考という見る行為が先行する。 https://m.youtube.com/watch?v=ZsgEj4hASMA&feature=share

『皆殺しの天使』(1962 ルイス・ブニュエル)をたたえる

‪2019年は安倍政権が制作した「敗北日本」の部屋から誰も出ようとしないかんじだけれど、『皆殺しの天使』(1962 ルイス・ブニュエル)がなんかようやくわかってきたような気がする。誰も出れない部屋とは絶対権威の部屋として物語られていたのではないか。そして暴力というのは、言論によっては覆すことができない絶対権威にたいして正当化されるように感じられるとき、次になにが起きるのか。純粋な理性如きもの(言論なき思想)が、(思想から自由な)純粋な暴力とともに、限界なく広がっていくとしたら、これはブルジョワ近代に反復する皆殺しのファシズムにほかならない。‬

https://m.youtube.com/watch?v=kmTCxXRZxUA&feature=share

MEMO

‪安倍政権の「東京新聞記者の会見で閣議決定」は、言論・報道の自由、知る権利に対する爆撃に等しいのではないだろうか。「必ずしも簡潔といえない質問が少なからずある」(閣議決定)というが、それは質問者は国民が理解できるように質問しているからこそである。質問者を威圧して妨害する行為は、質問者と共にあるわれわれの身体を実際に傷つけているとわたしはおもうのだけれど

Every established order tends to make its own entirely arbitrary system seem entirely natural. ― Pierre Bourdieu

あるいは男性権力に依拠できないとしたヴァージニア・ウルフの精神のジャーナリズムにおける継承かもしれないとおもっているのだけれどね 自ら放送原稿を書く女性アナウンサーの質問には知る権利以上の意義がある。質問は権力者を正す。BBCの報道番組は冒頭に書く身振りとジェスチャーを示すことがある。権力者の男性たちは語る。書くことは語ることに先行している。英国の野蛮を啓蒙する使命をもつといわれるBBCにソーシアリスムが定位していると言わざるを得ない。

EU市民とマルチカルチャリズムは帝国主義の英国を卒業するための理念である。と自らを規定し始めたBrexitの最大の問題は、新しい普遍主義を再構成しようとはせずに、第二次世界大戦の「勝利」の果てに乞食になった自らの帝国主義に依存する過去を消す自己欺瞞にある。アジアにおけるEUモデルにかわる新しい普遍主義を模索せずに解釈改憲的に再び成立した国家神道に行く、言説 <国家神道としての日本人>もまた、アジアの二千万人の犠牲を消している‬

象徴性を超えた過剰な祈る行為にフォーカスした、「祈る天皇」の抵抗?を発明した左翼の言説が、日本会議の言説に包摂されてしまうことだって起きるかもしれないのです。講義で言及されたようにその内容はまだ固まっていないかもしれませんが、後者の天皇教的国家観は、米中から自立した普遍主義を模索する自由な言説空間の構造が依拠する空白(「天下の公」としてのX)を隙間なく埋め尽くすようなものであると考えておく必要があるとおもいます。差異は反復します。この時代になってやっと中江兆民が何に穴を開けようとしたのかが段々とわかってきたように思います

糸で貴族が「羊飼い」の貴族の人形を操っているようにみえます。人形劇の籠のなかから出ても別の籠の中にいるのだから、サロンの籠のなかでマッチョ主義の籠そのものを壊しましょう、と読めました(*≧∀≦*) フランス革命のマッチョ主義がこういう女性的なものを破壊しつくしたのは残念です。

‪「帰国子女」の特権は、「みんなと一緒に」と親や先生に叱られるとき、それは日本人のことなのかとストレートに反論できること。この後、「日本人という言い方をやめなさい」と叱られるのだけれど。「『みんな』は『日本人』とは言わないのですからね」と続く。‪問題は、『日本人』と言っている以上、ヨーロッパ中心主義のオイデプスに囚われている。『日本人』から自立するためには、それがいかに破綻しているかを考える。『日本人』の150年間がいかに失敗していたかを知るためには、150年前に確立した直線的な物の見方のなかでそれとは異なる500年ぐらいの幅のある視点を地下茎を通じてもつ必要があるとおもう。‬

安倍しんぞー「あなたさまにはノーベル賞、さてトランプ賞の栄光はだれに行くのでしょうか」 トランプ「ふ、困った奴だな。犬には骨で十分だ」

丸谷才一の文体論 「奇妙なことを言ふやうだが、第一に、「口語体」といふ名称に罪があつた。もし「現代文体」とでも命名されてゐたならば、事情はいささか違つてゐたかもしれぬとぼくは空想する。本来、「口語体」とは、「文語体」が文章語による文体といふ意味であるのに対して、口頭語による文体といふ気持で名づけられたものであつたらう。つまり、それはあくまでも丈体の一種であつたのだ。(「口語文」といふ名称の場合にも、事情はまつたく変らない。)だが、口語体の宣伝家たちは、それが文語体と異ることを力説するあまり、話し言葉をそのまま書き写せば文章になるといふふうに語つて、それが文体でなけれぱならぬといふ面を強調しなかつたらしい」

Daniele Albertazzi and Duncan McDonnell define populism as an ideology that "pits a virtuous and homogeneous people against a set of elites and dangerous 'others' who are together depicted as depriving (or attempting to deprive) the sovereign people of their rights, values, prosperity, identity, and voice"

無修正のBrexitは不可能です。EUとの間で調整されたBrexit案が議会で否決されたときは、イギリスはBrexitをやめたことにしなければいけなかったのですが...

イギリスは、ベルファスト合意(Belfast Agreementーイギリス、北アイルランドベルファストにおいて、1998年にアイルランドの間で結ばれた和平合意ーで為した誓いをどうするつもりなのか?‪ 現在Brexitの主導権は反イスラムのUkipから、大英帝国の夢から目覚めない保守党に移っている。「アメリカと組みんだ」(トランプは自分の国しか関心ないよ)。「インドがある」(また収奪できると思ってるの?)。「中国の時代だ」(...)。国家に戻るBrexitの一国家主義は、グローバル時代に新しい普遍主義の再構成を模索する方向にたいして背を向けている。勝利感に酔っているが、結局イギリスはなにもできずに、EUに戻るとみられている。戻るときの屈辱は想像に絶する...

‪1 cependant que l’acrobate est en proie à l’équilibre le plus instable nous faisons un voue et ce voue est étrangement double et nul. nous souhaitons qu’il tombe et nous souhaitons qu’il tienne et ce voeu est nécessaire ‬ ‪綱渡り師がもっとも不安定な平衡状態に陥っている間、われわれは願いをかける。この望みは奇妙に二重であり、しかも無効である。われわれは彼が落ちてほしいと願い、われわれは彼が持ちこたえてほしいとも願う。しかもこれは欠かすことのできない願いだ。‬(Godard 4A)

安倍しんぞー「元号の出典は日本で書かれた書物がいい」

元号「首相、その理由は?そもそも国民にとって元号の意味は何ですか?理解されていないものはもう無意味ではないですか」

ーはやく質問にはいってくださーい!

しんぞー「あなたの質問に答える必要はありません」

‪『言葉と物』のフーコの文は「17世紀的」だといわれる。多分同じ意味で、「バロック的」ということも言われる。これはアカデミーの鍛えぬかれたヨーロッパ原理主義者でなければ完全に理解できないような言葉である。「17世紀的」とは何か?「バロック的」とは?その意味は独学者であるわたしのような者には一生かかってもちかづけない高みにある。そこで翻訳者の渡辺一民氏の言葉を思い返して、考えるヒントをさがしてみようか。彼は他の学者と違う読み方をするという。巻頭のベラスケスの絵を常に思い浮かべながら読むのである。またこういうことも言っていた。フーコのどの文も曖昧であるけれど、それらによって構成されている本に明確な全体性が見事に成り立っているんだよねと驚嘆していた。そのときは「バロック」という言葉を言っていなかったが、成る程、絵画史でいわれるバロック的なもの特徴は、部分が曖昧であるが、全体として明確なイメージをもっている。バロックの代表選手であるカラバッチョの絵を例にとると、部分の不定形なイメージは、全体のなかではじめて意味が明らかになる。(「帯」が描かれていたことがわかる。)ダブリンで8年間見つづけて意味が分からなかったカラバッチョの作品(「キリストの逮捕」)も、発想の大転換が必要だったのだな。部分であるわれわれのもっとも近くにあるのは全体である。そんな全体は神ぐらいしかいないということをあの絵はあらわしているのかもしれない。と、最初の問題関心に戻る。『言葉と物』に、部分における卑近なものに至上なものがあるというアイロニーの精神を読めるか?それを「17世紀的」「バロック的」とよんでいいのかもわからない。「17世紀的」「バロック的」というのでなければ、映画的というかな、遠くからやってくる、解釈し尽くせない映像の反復にとらわれる幸福感のこと。本当にそうなのかとフーコを読んでみるかという気持ちになっている(どうせ挫折するからやめとけ)

東浩紀氏の「多文化共生の国際社会」の言説

‪ ‬‪‪「神」に言及するのは中立の立場から両者を説得するためのただのレトリックですか?レトリックならば絡むべきではないでしょうが、しかしですよ、なんか引っかかるんですね。「神々の闘争」というロジックとしても、黙って「なるほど」と頷くこともできません。あなたの、そしてこのわたしの立ち位置はどこですか?多文化共生の国際社会」の言説は、it sounds good で、現代語訳の古典文学からもそういう見方を聞きます。文句もありません。しかし...「多文化共生の国際社会」の言説は、安易に「日本の神」をいうことによって、かえって、「多文化共生の国際社会」とは全く反対の国のあり方を現実化してしまう危険だってありますよ、きっと。 ‪ ‪

‪「韓国には韓国の歴史があり韓国の神がいる。日本に日本の神がいるように。異なった神=歴史を信じている以上、不毛な対話もあるだろう。けれども人類はその不毛さを乗り越え、多文化共生の国際社会を作りあげてきたのだ。東アジアでもその可能性を諦めてはならない。」(東浩紀)‬

国家神道の安全神話化

大嘗祭違憲」訴訟、棄却。公費差し止め認められず。 これに関しては裁判所は、あえていいますが、まるで国家神道の復活を許すただの行政の解釈改憲ではないですか。そして国家神道安全神話を形成してきた言説の責任が決定的にあるでしょう。日本会議を擁護していなくとも、宗教学の影響力ある学説において、国家神道の狭い定義が広く成立してしまった危険性のことを子安宣邦氏は指摘します。2016年の安倍がサミット首脳達を伊勢神宮に歩かせたこと、そして今年初めに野党指導者たちの伊勢神宮公式参拝。‪解釈改憲的に憲法第9条が空文化されたように、解釈改憲的に国家神道が復活したとする見方について考えるときだと思います。ヨーロッパと同様に、アジアでも市民が依拠できる新しい普遍主義の再構成が模索されていますが、国家神道安全神話化によって非常に悪い形で模索されることは間違いないです‬

‪2018年の漢字は「災」

‪ ‪2018年の漢字は「災」。市民大学講座の後で池袋駅前の喫茶店渡辺一民氏が言っていたが、財界の教育の介入によって、語学教育の中心が伝統的なテクスト読解から英語モデルの実践的会話となったが、このことが安全神話を疑う思考力を奪った可能性があるという。原発事故は如何なる意味で政治災害なのかという問題提起は、「災」の狭い定義からすると、「災」の広すぎる定義にもとづく根拠薄弱な解釈なのだろう。だけれど「狭い」「広い」という二項対立ー思考の近代ーをみとめてしまえば、結局は政治災害の観念は思考の対象からは排除されてしまうことになるのだ。「国家神道」がもたらす政治災害を考えるとき全く同様のことが言えるだろうとわかってきた

<半ー亡命>は思想となるか?

‪ ‪‪疎外は全体性が失われている状態であるといわれてきた。しかしそれほど単純なことではない。亡命者は困難な条件のもとに疎外されているが距離を保って全体を見渡す知識人的視点をもつ可能性のことをサイードは指摘したとわたしは理解した。この場合、距離とは、ナショナリズムを批判的に論じることを無意味とする言説形成に対する拒否であるとおもう。さて半分だけの亡命という風に形容するしかない亡命の状態もある。中間状態にあることを奪うカオスにたいする環境の反撃に通じるものがある。仮にあると考えてみると、どんなことが言えるか?21世紀における米中の時代にあらわれてきた、アメリカと中国の間の地に依ろうとする<半ー亡命>にとっての新しい経験とはなにか?如何なる条件で経験を可能にするのか。国家神道解釈改憲的復活、近代国家存立の危機を巻き返そうとする日本ナショナリズムの自らの勝利に酔う反動をどう批判していくのか。戦前の思想家たちの見方を利用することによって構成していく新しい思想から、再びアメリカと中国のあり方をとらえかえすとき、<半ー亡命>は新しいアジアの思想にすむことができるか‪という問題提起を行いたいと考える‬