西暦2019年五月一日とは何か?

西暦2019年五月一日とはなにか?

問題は、天皇の過剰な祈りの行為が象徴性を超える政治性を帯びてしまったことにある。君主論の言説は非常に危険である。また「たたかっている」とか、皇室民主主義論とかは的外れだ。元号好きも天皇好きも自然消滅するだろう。そのときまでに中江兆民の役割を引きうけて、強力な共和主義の理論を作るのはだれか

BBCも、報道なのかオリエンタリズムなのか訳のわからんことを喋っているー「万世一系」「三種の神器」「人びとの美しい調和」。美術館の一室で貴族の肖像画の前に立ったときに覚えるような昨日今日のこの虚ろな感じときたら、何だろうな?此方(見ているもの)に対して全く関心をもたぬ冷たい視線を一生懸命理解しようとするから起きる拷問を受けるような疎外感である。愛していないものを愛しているふりをして遠い所からトータルに考える無理。隣どうしの卑近な所からトータルに考えることが自分にとって大切だろうと思う。そこで言葉が思考を以って保たれる自己自身との関係が、明治維新天皇・貴族・宗教者・軍人・官僚の力のイメージによって隠蔽されて外部にある見えなかった過去との豊かな関係と共にみえてくるかもしれないとかね

次になにが起きるのか?

憲法軍国主義と国家祭祀をやめることを敗戦のときに誓った。日本会議の安倍政権は憲法改正の必要もなく解釈改憲によって、敗戦のときの誓いを奪ったのである。次になにが起きるのか?大阪G20サミットと東京五輪を契機に、米中から自立した「靖国神社としての日本人」という危険なナショナリズムを全面に打ち出してくるのではあるまいか。それは、アジアが行なっている政治的多元主義に向けた普遍主義の構成にとって、全く役立たない歴史修正主義である。

ゴダールの『JLG/自画像 』(autoportrait decémbre 1995)

ゴダールの『JLG/自画像 』(autoportrait decémbre 1995)

ゴダールの78年からの映画復帰はウィットシュタインの哲学界への帰還に喩えられる。この7年後の1985年に、ゴダールは思考手段としての映画の意味を語っている。以下、ゴダールの言葉。

自画像、「『ゴダールによるゴダール』を撮るよう求められていたが、[JLG/JLG]の方がわたしは気にいっていた。[JLG/JLG]はひとつの自画像であり、自画像は原則として映画では作り得ないものだ。それは、なにか絵画に固有なものである。わたしはわたしにとって自画像を作ることがどういう意味をもつのか理解したいとおもっていた。映画において自分はどこまで行くことができるのか、どこまで映画がわたしを受けいれてくれるのか見たかった。作品のほうが人間よりも重要であると考えることは、かなり古典的な芸術観だ。それは「作家主義」と呼ばれてきたものだが、十分理解されているとはいえなかった。大事なのは主義ということであって、作家自身ではない。ピカソもまた、絵画において自分はどこまで行くことができるのか?とよく自らに問うた。画家が風景を描くことにうんざりしたとき、画家に残されていることはもはや自分自身を描くことでしかないのだ。映画はこれとはいささか異なり、ひとりで作ることはできないので、つねにその孤独な人間の周りにあるものを示すことができるのだ。わたしはずっと映画は思考手段だと考えてきた。(...)わたしは映画を構想しているときも幸せだが、物事が完成したとき以上に、なにか模索しているときの方がもっと幸せだ、(...)わたしは青年時代に読むことができた、ブランショバタイユの本に似た映画を一本撮ろうとしたのだ。たとえば覚えているのは、バタイユの『内的体験』、当時、わたしはアンリ・アジェルの講義に出ていた。彼はブニュエルの『糧なき土地』を見せてくれた。わたしは「これはまさに衝撃的な『歴史』の内的体験です」とかれにいった。要するにこういうことだ。映画は形而上学をするためにまさに存在する。そもそも、それは映画が行なっていることだが、ひとはそれに気がつかない、だからそれを行なっている人々はそれを公言しないだけの話だ。映画はそのメカニックな発明のために、何か極めて物資的なものであるが、それは逃避するために作られるのだ。そして逃避すること、それこそ形而上学にほかならない。‬

‪ー ゴダール (渡辺諒訳)‬

ゴダールの『JLG/自画像 』(autoportrait decémbre 1995) ‪AUTOPORTRAIT. < on m’avait demandé Godard par Godard, mais je préfère JLG/JLG. C’est un autoportrait et en principe, ça ne peut être fait au cinéma. C’est quelque chose de propre à la peinture. Je voulais essayer de comprendre ce que signifie pour moi faire un autoportrait, voir jusqu’où je pouvais aller dans le cinéma et jusqu’où le cinéma pouvait m’accepter. C’est l’idée de l’art assez classique qui dit que l’œuvre est importante que l’homme. C’est ce qu’on avait appelé “ la politique des auteurs” et qui a été mal comprise. Le mot qui comptait c’était la politique et pas l’auteur lui-même. Picaso se posait aussi beaucoup cette question : jusqu’où puis-je aller dans la peinture.? Quand ils en avaient marre de peindre des paysages, il ne restait plus aux peinture qu’ à se peindre eux-mêmes. Le cinéma étant un peu autre chose, ne pouvant pas se faire seul, on peut toujours montrer ce qu’il y a autour de cette solitude. J’ai toujours pensé que le cinéma était un instrument de pensée. (...) Je suis heureux aussi dans la conception mais je le suis plus dans la cherche que dans l’accomplissement des choses. (...) j’ai essayé de faire un film qui ressemble aux livres que j’ai pu lire dans mon adolescence, ceux de Blanchot, de Battaile. Je me souviens par exemple de L’Experience intérieur. À l’époque, je suivais les cours d’Henri Agel, il avait passé Terre sans pain de Buñuel et je lui avais dit : “ C’est une bouleversante expérience intérieure de l’Histoire.” Voilà, le cinéma est là pour faire de le métaphysique. C’est d’ailleurs ce qu’il fait mais on ne le voit pas alors ceux qui en font ne le disent pas. Le cinéma est quelque chose d’extrêmement physique de par son invention mécanique. C’est fait pour s’évader, et s’évader c’est de la métaphysique. ‬

‪ーGodard ‬1985

f:id:owlcato:20190430004606j:plain

ゴダールの『女と男のいる舗道 』(Vivre sa vie 1962)

f:id:owlcato:20190429175810j:plain

ゴダールの『女と男のいる舗道 』(Vivre sa vie 1962)

ジャン・ドゥーシェは、溝口健二監督の『赤線地帯』(1955年)の影響なしには本作は存在しないと指摘しているという。アンナ・カリーナの渾身の演技をみよ。ゴダール映画はアンナ・カリーナがいなければ成り立たなかったとおもう。衝撃を受けるのはやはり、ナナが場末の映画館で、カール・テオドール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を観て涙を落とすショット(アルトーが出演している。) そしてシャトレ広場 - 見知らぬ男 - ナナは知識をもたずに哲学する場面である(place du Châtelet - l'inconnu - Nana fait de la philosophie sans le savoir)「ナントカなんとか最後の...」とか「ナントカの最初の...」と反復されるような思考なき表象に絡みとられることはない。ナナにおいて言葉が思考を以て持続しているのだ

ゴダールの『小さな兵隊』(Le Petit soldat )

ゴダールの『小さな兵隊』(Le Petit soldat )は、1960年に製作されたが、検閲にあった。1963年に公開された。ゴダールはいう。‬

‪『小さな兵隊』は、鏡のなかに映る自分の顔が、自分の内面に思い描いている自分の顔と一致しないことに気づく男の物語である。‬

‪«Le Petit Soldat est l'histoire d'un homme qui trouve que son visage dans une glace ne correspond pas à l'idée qu'il s'en fait de l'intérieur.»‬

映画は、ロマン主義的なものと政治的なもの(拷問)との混同によって成り立っている。‬

f:id:owlcato:20190429170916j:plain

ゴダール『シャリオットとジュール』( Charlotte et son Jules 1958)

f:id:owlcato:20190429161114j:plain

ゴダール『シャリオットとジュール』( Charlotte et son Jules 1958)

路上に置かれたクルマのなかでシャルロットを待つ彼氏を撮影しているが、ほかはひとつの部屋のなかで撮られている。映画とはなにか?映画とは幻想としての芸術であり、映画ではない文学と絵画による裏道の唄声を聞きとりたいと願っている。