本居宣長

‪この一年間、12世紀の朱子学の文を一緒に読んでもらっている。18世紀の本居宣長が聖人と鬼神についてこういうことを考えて書いていたのは、随分最近のことのようにかんじる。とくにいまの時代でなければ、問題意識をもって読むことはなかったとおもう。理念性の否定から「国家神道」に行く道が切り開かれる。国家祭祀の問題を考えることは、明治の近代化の失敗を考えることである。つまり、明治維新150年を祝した、理念否定の日本会議歴史修正主義者・安倍晋三の、憲法メルトダウンしかねない政治の危険を考えることであるとおもう。

‪「されば聖人の鬼神に仕え給ふこころばへは、いと重き事にて、云々 (...) 難者のいへるごとく、儒者は皆かく思ふ事なれ共、神に奉仕る道は、周代の定めはなお軽薄にして、至らざる事ぞ有けむ。その故は、まづ殷の世は鬼神を尚ぶ風俗也と、周人のいへるを以て見れば、鬼神に奉仕る事、周の代は、殷の代より軽かりし事しられたり。然ればもし殷の代よりいはば、周人は鬼神を侮りて尊まざる風俗也といふべし。これ周の不及歟、殷の過ぎたる歟、その実は定めがたしといへども、周公旦がすべての所為をもて考ふるに、さかしらなる事のみ殊に多ければ、鬼神をも実は信ぜぬ心有て、これに奉仕る道も省略せし事ぞ多かりけん。然るに儒者は、かかることを思ひめぐらさずして、ただひたぶるに周の定めをのみ正しと思ふは、いと固くな也。さて又すべて聖人の立たる祭祀の式なども、理を先にして設けたるさかしら多し。又聖人は必しも理によりて設けたるにはあらぬ式などをも、後人のみだりに理を附会して説なせる類も多し。されどそれも皆聖人にならへるものなれば、本は聖人より起れる事也。又心だに誠の道にかなひなばという歌を、儒仏の意也と余がいへる、儒は、宋儒のたぐひを指也。上にもいへる如く、宋儒も儒なれば、などか儒といはざらん。さて此ついでにいはん。近き世には、宋儒などを聖人の道にかなはぬやうにいふ儒者おほけれども、宋儒‬

‪の空論理屈も、古へよりいひ始めおきたる空論理屈の、増長せるものなれば、その本はみな聖人の罪なり。」(くず花下つ巻)‬

ラディカルリベラリズム

ラディカルモダニズムにおける外部思想の否定的差異化の意味は、ラディカルリベラルの肯定的差異化からはじめて明らかになるとおもわれる。外部の肯定的差異化は、ラディカルモダニズムの言説<言語の消去としての近代化>に絡み取られず、死に切った過去の言語を身体に奪回する。言語は不可避の他者である。言語は国家祭祀の近代だけでなく帝国の文明論的同化主義と戦争と開発の教説に対するラディカルリベラルの異議申し立てを構成する

MEMO

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目に見えない素材とリズムを以って他者を描く=書くピカソにおけるマネの‘草上の昼食’の解釈は、バベルの塔の崩壊の後の人間の文化において不可避なものを問うたと私は思う。文化を無意識の情動の上に築こうとするが、再びファシズムに絡みとられずに、情動から独立している概念ー外部の思考ーが必要とされる‬のではないか


Ulysses 

近代の植民地主義を考えるとき、ヨーロッパ自身も植民地化されたのである。英国の帝国主義アイルランドを植民地化した。近代を超える為に、植民地化されたアイルランドを書く倫理性は、同時に自身を植民地化したヨーロッパを書く倫理性である。これが『ユリシーズ』にダブリンの署名がない理由ではないか


Finnegans Wake 

ー And the duppy shot the shutter clup Perkodhuskurunbarggruauyagokgorlayorgromgremmitghundhurthrumathunaradidillifaititillibumullunukkunun



ホーホー、たまたま目の前に座っていた誰とか、並んでいた誰とかの輪郭、通り過ぎた誰とかのも重なっているのかもニャリ。疲れて文字を書く力もなくなってきた所で、絵というほどのものではないけれども、何とか、秩序づけられている仕方を明らかにすることによって秩序を崩していく認識の場の揺れる影みたいなものを描く/ 書くことができるか、ホー


L'art est la nostalgie de l'idéal. 

ー Andrej Tarkovski


表現の自由」からは、「日本人の国民の心を踏みつける」ものが見えるだけのこと。「心を踏みつける」かどうかは、作品をどう解釈するかによる。または解釈の解釈によること。解釈の自由がある。しかし「表現の自由」をみとめないと、政治家と文化人たちがいちいち指示する、生活の隅々まで侵入してくる「日本人の敵」「国民の敵」にヘイトスピーチしなければならなくなる。そうなっては、結局何も見ていなし、なにも語ってはいないのであるまいか。人間の自由をやめなければならない


<ラジカルなモダニズム> は何か?トータルに、全的否定的に、思想性なき広がっていく翼、豊穣さに宿るのか?


‪フーコ的に言うと、「バベルの塔」の崩壊(原初的な第一次的パロールの喪失)がはじまるのは17世紀からである。「表象」の時代がくると、原初的な書記言語の前に話されていた言葉が実在したと近代主義者の間から言われるようになる。これは原初的な書記言語の「透明化」である(「『古事記』は読まれ続けてきた」)。そうして超越的なものが声の中から構成されるとき、問題は、帝国主義の時代の政治支配者が、死者の世界を主宰する超越的なものに権力を集中することで、昭和十年代天皇ファシズムに帰結するような無責任体制を推進してしまうことにあった。しかし書記言語の消去を徹底を言うことによって、天皇ファシズムの否定を根本的に考えさせる批判性をもった「ラディカルなモダニズム」も存在した。われわれは「表象」の時代ではなく、「言説」の時代に生きていることをおもう



思想史教室にアジア主義の亡霊が徘徊している?失敗した近代日本の問題は中国の革命が解決するという。と、再びデリダアルトー論が気になってきた。近代演劇の問題の解決は政治にかかっている。問題はルソーだ。ルソーを読み解かなければならない。演劇の代理性を排したファシズムの記号(声)の透明性に解決をみるルソーの言説に、アルトーの書記言語としての身体が抵抗する...



After Godard, chapter one (a) all the histories  

denn ein Filmprojektor ist gezwungen sich an die Kamera zu erinnern 

und wenn das Kino nur eine Zerstreuungsindustrie is dann, Weil es zunächst der einzige Ort ist wo das Gedächtnis Sklave ist. 


北アイルランドとの国境線を不可視に保つこと(keeping the border invisible)によって紛争を避けている。境界線は地図に見えるだけ(内緒だが南アイルランドの地図では国境線は毎年数センチづつ北へあがっている)


‪‪‪イギリス人はイギリスを一つとみているからアイルランドを一つとみる。沖縄を無視して日本を一つとみている日本人が中国を一つとみるように。イギリス人がアイルランドナショナリストの見方をつくったが、しかし普通の人は地球上のどこかに貧困があればそこにアイルランドが存在すると考えるからアイルランドは単純に一つではあり得ないというか。一つだとしても、‪ポストコロ二アルな‬貧困の経験を利用して、一的多であると考えていこうというのである。沖縄、台湾、香港も、自らを囲まれていない海で繋がる一的多であるとして新しくやって行こうというのではあるまいか



あらゆる可能性の予見に責任をもたされたらクルマの運転ができなくなるというようなことがいわれたこの理屈をですね、原発の運転の場合にも適用していいものなのでしょうか?


東京地裁からの贈り物で今夜は東電は大パーティで盛り上がるのでしょうか

「東電旧経営陣3被告に無罪判決」


AWFUL 


Fukushima disaster: Nuclear executives found not guilty



原発問題を作り出した国家の自らに対する「無罪判決」については、復興幻想の内側のなかにおいて十分に報じられず議論されていないようであるが、この問題は外からはどうみえるのか


RHETORIC WORLD No.1 のお国の独立騒動


英国議会は、前例のないほど長く正常とはいえない休会にはいった。首相が、合意なき英国EU離脱をめぐって野党の質問を封じるために、女王を騙してその権力を利用した可能性も囁かれる。この件について最高裁が介入してきた。現在、休会の手続きが違憲かどうか審議中。ロンドンの三角形を為す行政・立法・司法の権力ゲームを、第4の権力であるBBCが伝える( BBCは野蛮なイギリス人を啓蒙する役割をもっている)。EUは、ナショナリズムを背景とした合意なき英国EU離脱をみとめて、北アイルランド国境の暴力の復活をゆるわけにはいかない。 

嗚呼、RHETORIC WORLD No.1 のお国の独立騒動、どうなるのか?ナショナリズムは、フランス革命の時代においては平等を実現する役割もあったが、ー 「みんな」「みんな」と言っているうちに「人類」を意味する可能性もあったがー、21世紀の現在はそんな役割をもっておらず、ただ他国とのあいだに憎しみの交換をもたらすものでしかない(憎悪の互酬性) 。人類における新しい普遍主義の探求は、EUからの差異化からでてくるのであり、EU離脱の「みんな」によるナショナリズム否定からはでてこないとわたしはかんがえている‬




ベラ・バラージュ『映画の理論』第五章 視覚的人間 (佐々木基一訳)‬ より‪


いまや映画は、文化にひとつの新しい転換をもたらそうとしている。少なくとも、文化に新しいニュアンスを与えようとしている。数百万の人間が、毎夜映画館の中に座って、言葉に頼ることなく、もっぱら目を通して、さまざまな事件や人物や感情や情緒に、いや思想にすら親しんでいる。(...)‬

言語学の研究は、言語の起源が表現動作のなかにあるということ、すなわち、人間が話しはじめるときには(ちょうど幼児がするように)舌や唇を、顔や手の筋肉と同じように動かすということを発見した。つまり、そのそもそもの目的は音を作ることにはなかったのだ。舌と唇の動きが、体のすべての表現動作と同じく、はじめは自然のジェスチャーであり、反射運動であった。その際、その動きから音が生まれるということは、最初から意図された付随現象ではなく、ただ後になって、実用的な目的のために利用されただけである。直接に目に見える精神は、こうして、間接に耳に聞こえる精神に変わった。このプロセスもなかでーあらゆる翻訳の場合と同じくー非常に多くのものが失われた。しかし表情豊かな動作、ジェスチャーこそ人類の土着の母国語なのだ。(...)‬

‪とはいえ、これを、言語文化のかわりに、ジェスチャーと表情の文化を置き換えようとするものだ、というふうに受けとめられては困る。両者は互いに取り換えることのできないものだ。合理的な概念文化、およびそれと結びついた科学の発展を抜きにして、社会の、したがって人間の進歩はありえない。現代社会の接着剤は、言葉と文字であって、こうした接着剤を見い出しえないところでは、どんな組織も、どんな計画不可能である。他方、人間の文化を、合理的な概念のかわりに、無意識の情動の上に築こうとする傾向が、どういう方向を辿るかは、ファシズムがはっきり示した通りである。(...)‬

‪新しく発展してきたこの表情とジェスチャーの言語は、人類を互いに親密に近づけるだろうか。それとも今以上に疎遠にするだろうか。バベルの塔を建てる際にも、それぞれ異なる多様な言語の背後、共通の諸概念があったのであり、だからこそ、他国の言語を学ぶことが可能なのである。ところで、文明化された世界のなかでは、いろいろの概念は慣習によって定められた表象内容をもっている。普遍的に通用する文法は、互いに切り離され、めいめいが勝手な方向を向いているブルジョア社会のもろもろの個人を結合するひとつの環であった。極度に主観主義的な文学でさえ、普遍的に通用する語彙を用いて書かれたので、誰も全く理解されないという孤独な運命を免れたのだ。‬


地球規模の汚染に責任ある国なのです。われわれはもっとパニックに陥ってもおかしくありません、小泉の息子が語る「セクシー」という科学と無関係なホラ話に異常な希望をもつよりは




L’écran, sans lequel il n’y aurait pas d’écriture, est aussi un procédé décrit dans l’écriture. Le procédé d’écriture est réfléchi dans l’écrit.

ー Derrida  La dissémination 



「外」は、今日われわれが心的なものと物理的なものと呼んでいるものの継ぎ目で始まるものではない。そうではなく、(…)外はすでに記憶の働きの内部に存在する(『散種』)

(デリダ)


ボリス・ジョンソン首相が女王権力を利用して行おうとした異常な長期間の国会休会に、イギリスの市民達は抗議の声をあげていた。今回最高裁違憲判決を出した。市民運動の抗議が意味をもったのである。比べると、日本では市民運動は必ず挫折してしまう。なぜか?それは、ヨーロッパとちがって、国が市民運動と協力しないからだ。明治の近代化が市民の力を抑えつけて国に逆らうなとする今日を制作したのである



公の場ならばあんな言葉の使い方はしないもんだよといくら正しても、そもそも「公」の意味を失ったネオリベの特権エリートのお兄さんだからなあ。わかっていても、あれは、公を国家を超えるものとは考えようとはしないのだろう。「三十年後」と言っているが、150年前をみているだけ。香港と台湾の自発的に街頭に出た若者の三十年後の成熟をおもうと、溜息しかでてこないね、大島渚が言う通りだったよ、出口なき酷い精神の抑圧で苦しむか自殺するしか残されていない不幸な国になった



le cinéma projetait et les hommes ont vu que le monde était lá un monde encore presque sans histoire mais un monde qui raconte 

ー Godard  histoire(s) du cinéma 


le monde était lá


映画の歴史でなければ投射できなかったものとは、映画が<映画をみる人間>を発明するとそれ以降、人間はスクリーンに先行するもの、その外部にあるものを思考の形式を以てしかみることができなくなったという歴史である。暗闇に形而上学が呟くー見る前に、投射されないものが投射されているとしようと

das Kino projizierte und die Menschen haben gesehen daß due Welt da war eine Welt noch fast ohne Geschichte aber eine Welt, die erzählt


日本会議の文化統制だ。歴史修正主義者・安倍首相主催の「桜を見る会」は文化の枠づけである。極右翼と文科大臣が、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじる」記号にドンキホーテ的突撃を行う



「程子曰く、人多く鬼神を信じて惑うなり。而して信ぜざる者は、また敬すること能わず。能く敬して、能く遠ざくを知と謂うべし」(朱子論語集注)』


‪唐から宗、元へと移る時代に、新しく朱子学宇宙論的言語が生まれる。文献的注釈学的言語は過去のものとなる。これによって、漢字文化圏における朝鮮と日本とベトナムから民族的なものを基底とした独自の思想が展開する。この歴史を前提に、子安先生の今日の講義では、果たして漢字言語を民族語に投射できるか、このことを考えた。例えば、本居宣長は「神」を日本語における「神」として考えたうえで、「シン」と読まず、「カミ」と読んだのである。このとき、「カミ」といわれるものの意味はなにか?学者の彼はわからないと正直にいう。それはそうだ。漢字という原初的書記言語に退場してもらったら、漢字でないものは、漢字によって思考できたものを考えることができなくなるものなのだろう。各民族語への言語の分散は、それぞれの民族が互いに何を喋っているかわからないように神から罰を受けた「バベルの塔」の崩壊(共通言語の喪失)を喚起する。最初のほうで、漢字言語を民族語に投射できるかと問うたが、漢字言語を民族語に投射することはできないというのが答えである。そのことによって、はじめて、世界全体と関わる言語の存在が表象されるものなのかもしれないが、民族語の言説は話し言葉のなかに定位するカミをみるのである。ここから宣長の言説が展開する。これは、ほかならない、ナショナリズムである。この問題を、先生と早稲田大学の学生と一緒の帰りの電車のなかで考えることになった。‬言語の成立のためには自己の周りに他者を必要とする、と、先生は語る。たしかに、伊藤仁斎が言うように、卑近にこそ至上なものが存在するのである。その意味で、漢字は不可避の他者である。あまりに遠くに他者(この場合は、漢字)を置いてはならないということをかんがえたのであった。



何十年前のことだが、大学時代に、元最高裁判事のOBに原稿の執筆をお願いした。このかれは判決のことか、何か新しい学説でも書いてくるのかとおもっていたら、旅行で見学した香港の裁判所について書いてきた。なぜ香港裁判所を知ることが大切なのかとさっぱり分からなかった。総会にきた本人にきくこともできなかった。しかし本質的に大切なことを書いたのだろうとわたしに言う英米法の教授がいた。その教授は長谷川如是閑の制度的思考を重んじる伝統を強調していた。現在あの原稿の大切さがやっとわかってきた。香港はイギリスの植民地だったとはいえ、ある自由があったのではないか。香港の若者は長年のうらみがあるという。街頭で、中国に裁判が存在しないとデモで必死に訴えている


講座「明治維新の近代」13 について

<ラジカルなモダニズム> は何か?トータルに、全的否定的に、思想性なき広がっていく豊穣さに宿るのか?


バベルの塔’は古代帝国の高度な建築術と都市の多言語的多様性の勝利であった。それを憎んだ共同体ナショナリズムが「悪名高い」’塔’崩壊の伝説を物語ったと考えられるようになったのは、ポストモダンの時代においてからである。さて中華文明の書記言語がアジアにおける’バベルの塔’だとあえてフーコ的に問題提起してみたらどんなことが言えるだろうか?このことを、昨日の子安先生の講義(「明治維新の近代・13、シナの消去としての日本近代 (その一))で考えてみることになった。「書記言語として共通な日本語をもつの1500年代、それがはっきりしてくるのは江戸時代」(子安氏)という。これに対して、近代の言葉(ラング)を推進する体制から、書記言語としてのシナの消去をもとめる主張がなされる。現実も、音声化をよしとするこの方向で進んでいる。これが’バベルの塔’崩壊を意味する体制である。しかし津田左右吉においては、漢字的なものとしてのシナに対する批判は、明治維新の「漢的な」構成(例. 『教育勅語』)に対する批判性をもったことに注意しなければならないという。なるほど、この点において津田の明治維新の近代を批判する<ラジカルなモダニズム> は、なにか?<ラジカルなモダニズム> は何か?思想性なき広がっていく豊穣さ?それは、ほかならない、「希少性」(子安氏)である。明治維新150年の現在を考えてみよう。「現代日本語の最大の課題は漢字の廃止である」と音声化を称える言説は、言葉(ラング)の体制による後戻りできない’バベルの塔’の崩壊の必要を訴えるだけだ。ナショナリズムナショナリズムとが衝突しあって、お互いになにを喋っているのかさっぱりわからず、憎しみの互酬性に翻弄されて、そのことが帝国の支配を許すかもしれないという近代の限界をみようとはしない。だけれど現在考えなければならないのは、言説から言語(ランガージュ)を奪回すること、明治維新の近代から攻撃された書記言語を取り返して自立的な思考の力を回復すること。これらのことがグローバルデモクラシーにおける理念としての’バベルの塔’を再構成することの意味を考える思想史の充実にかかわるとおもわれるのである。


(追加)

‪フーコ的に言うと、「バベルの塔」の崩壊(原初的な第一次的パロールの喪失)がはじまるのは17世紀からである。「表象」の時代がくると、原初的な書記言語の前に話されていた言葉が実在したと近代主義者の間から言われるようになる。これは原初的な書記言語の「透明化」である(「『古事記』は読まれ続けてきた」)。そうして超越的なものが声の中から構成されるとき、問題は、帝国主義の時代の政治支配者が、死者の世界を主宰する超越的なものに権力を集中することで、昭和十年代天皇ファシズムに帰結するような無責任体制を推進してしまうことにあった。しかし書記言語の消去を徹底を言うことによって、天皇ファシズムの否定を根本的に考えさせる批判性をもった「ラディカルなモダニズム」も存在した。われわれは「表象」の時代ではなく、「言説」の時代に生きていることをおもう

『タクシードライバー』(1976) と 『キング・オブ・コメディ』(1982)

タクシードライバー』(1976)


『キング・オブ・コメディ』(1982)


どちらの作品も、マーティン・スコセッシ監督のStorytellerならではの映画ですね。ロバート・デ・ニーロが主演。ポール・シュレイダーが脚本を書いた『タクシードライバー』は、不眠症の人が時間を活用してタクシードライバーになって、中世の騎士みたいになるという話です。これは都会の孤独を描いていると思うのですが、比べると、『キングオブコメディ』のほうが孤独が深いのかもしれません。現在は孤独が深くなってきたので、『キングオブコメディ』の面白さも再発見されるようになってきたのではないでしょうか。『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルは、ギャングが商売している少女買春にたいしては、実際に連れ戻された被害者の少女を目撃して、かれの孤独が憤りになりました、あそこまで過剰になったのは驚きましたが。比べると、『キングオブコメディ』のルパート・パプキンは、事件を起こすまえに、決定的に何を見たのかがはっきりしません、わたしの印象ですが。彼は居酒屋でテレビに登場する自分の姿を見て一応満足気なのですが、これは映画のやや後追い的な説明であるように思います。対象が存在しないなかで自分の内部でストーリーをどんどん作っていく逸脱の面白さがあります。テレビに出たら兎に角問題は解決するのだという乗りなのですね。

タクシードライバー』のトラヴィスは本を読む都会人。事件を起こす前まで結構読んでいました。本を読むStorytellerと同じように、言葉にたいする信頼が、依拠できる天をまもろうとします。カタストロフイーの映画はマゾ的かつサデイズム的に展開します。戦争に勝てば問題は解決するのだと大衆に呼びかける三島的なところがあるように思いました。比べると、『キングオブコメディ』のルパートは、照明のなかに置かれて舞台にたつ彼の後ろ姿が印象的ですが、テレビを見るーテレビに見られる大衆。突き動かしてくる闇は、ファシズムの闇ほど暗くはなく、むしろ視聴率という名の最大多数の最大幸福の「明るさ」をもっています。だけれど伝達すればなんでもいいというわけではなく、discipline として、storyを語らなければいけません。『キングオブコメディ』はわれわれが生きている現実に根差しているような映画ですが、十分にこの映画の意味を分析した批評が出てくる前に、インターネットの時代がきてしまいましたかね。これから語ることを、かつて言われていたに関わらず、だれも言わなかったこととして、語ること、これが終わりなく解釈を解釈していくこの時代のstoryにたいする要請です。孤立しないためには受けいれるしかありませんが、何か人間の底なしの無根拠性のほうへの孤独が深まってきたと感じるのはわたしだけでしょうか?

「‪われわれ物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しく... 」

「‪われわれ物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しく...」


解釈の解釈はなんのために行われるのか?それは、読む人間が依拠できる究極の原初的テクストの存在をもとめているとする説明がある。朱子学の言説から言葉を奪回しようとして、注釈の任務を通じて、依拠できる天の思想が近世の儒者によって読み直されているのである。「すでに言われたはずの事柄を言い直すことをもっぱら目的とする未来の言説のなかではじめて真実を表明する」。「だが、このきたるべき言説自体、みずからのうえにとどまる力をもたず、その言わんとするところを、一種の約束として閉じこめたが、さらにべつの言説へと遺贈するのである。その定義からして、注釈の任務はけっしておわることはない。」「われわれは物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しく... 」。と、フーコにおいて分析されたように、本居宣長の仕事は、古文辞学荻生徂徠から影響を受けることになったのは必然である。(子安先生は宣長は徂徠の一番弟子であると指摘なさっている。) 宣長は『古事記』に拠れというときは、中国文明からの自立を主張するためにだったのだろうか。アジアの危機をもたらした西欧列強の時代に、言論の自由がないなかで、徳川日本に何か言うとしたら、漢字の思考を批判する言葉しかなかっただろうかとわたしは想像してみる。彼は開かれた解釈の解釈を可能にする漢字書記言語を否定した。問題は、そうして『古事記』は(想定された)「大和言葉」に同一化される可能性がでてくること(あくまでも可能性の話。) そのとき漢字は「借り物」に過ぎない。ところが近代主義は一見して同じ類いの同一化によって、ただし遥かに陰険に、非難されるべき宣長の思考に原理主義の存在を同一的に指示する。大和言葉が実体化するのは、宣長の思考形式を思考実体化することによってである。自ら実体化した思考を前にして、われわれはかくのごとく「合理性」の否定、したがって普遍の否定に導く原理主義(教説)に抗議すると近代は語るようである。ポストモダン多元主義はこの近代主義の普遍を批判する。漢字論の言説の運動として読み直すときわかってくるのはこういうことである。近代の普遍の同一化の見方からはみえないが、宣長がやったことは差異を差異化することだったのである。‪共同体が依拠できる絶対の原初テクストをさがしたのである。


最後に、本居宣長近代主義からは一言で言えば<困ったやつ>とされてしまった。その本居宣長を擁護することは、近代主義を批判することである。近代主義はこれを許さないのは、<困ったやつ>としかみれない自分の物の見方が批判されたくないから。宣長を非難する近代主義者が、宣長擁護を宣長批判と烙印を押す。これは何だろうか?‬

ジョイスの’自分で決めた亡命’ self-imposed exile

アイルランドからヨーロッパに出たジョイスの’自分で決めた亡命’ self-imposed exile を読みとれる一文。亡命といっても、1920年代のパリの知識人と芸術家たちの亡命とは随分ちがう。アイルランド人は英語を教える日雇い労働をさがしてやむを得ず国外を出るが、ジョイスも例外ではなかったとみるひともいる。「女房と逃げやがった」(ran away with hunself)の妻ノラアイルランドとおもっていたし、言説の空間化であれ(『ユリシーズ』Ulysses)、言説の時間化(『フィネガンズウェイク』Finnegans Wake)であれ、アイルランドのほかのことは本に書かなかった。’自分で決めた亡命’ self-imposed exile、これは勝算もない亡命であることをジョイスは隠しているが、むしろアイルランドから逃げた 

アイルランドのなかの亡命と考えるべきではないかと思うのである。


He even ran away with hunself and became a farsoonerite, saying he would far sooner muddle through the hash of lentil in Europe than meddle with Ireland’s split little pea. 

ーJames Joyce Finnegans Wake