いかに荻生徂徠をとらえるか?

 

「侍女の間」の画家ベラスケスは、モデルとして描くべき君主、描くべき非合理な存在が、眼の前から消滅してしまいそうで当惑している。鬼神のような非合理な存在を前提とした社会を考えていた思想家の孤独は、スペインの画家のより深くなるであろう。祭祀的なものは人間社会に不可欠だ。そうつぶやいたとき、荻生徂徠は、孔子の人生と同様に、この自分にもまた、仕える君主がいないではないかと気がついて愕然とした。だれにつかえる何のための官僚か、と、徳川家の大岩として仕えていたはずのアイデンティティを自らにいつものように問いはじめた。饅頭かじって寝っ転がっている道端の石ころとしても、遥か過去に存在した制作者の聖人への思いだけはしっかりと保とう。と、廊下で嫌な咳をおさえてそのまま玄関へ行く。家の者に気づかれないように灯りも持たずにここから、海の底の小船の徘徊のごとく、深夜の江戸に、未来を思い出すように、会ったことがない時代、明治にむかって、ルソー的精神が散歩しはじめるときであった...

 

(子安先生のお話をおききして、それらを勝手に自分の関心にむすびつけて書きました。フィクションです、あしからず。誤解がないよう)