どの人も学ぶ権利をもつ。「論語」の学びから語り始めた画期的視点を、しかし朱子学的な大義名分論は生かしているか?

どの人も学ぶ権利をもつ。「論語」の学びから語り始めた画期的視点を、しかし朱子学的な大義名分論は生かしているか?仁斎の朱子脱構築したラジカルな読みとて、この封建時代の支配的教説との衝突を避けた。だが、「論語」にかぎらないことだが、テクストが破綻しているからといって、そこから、もし思想それ自身を否定してはなにもかも全部がゼロとなり無意味になってしまうのではないだろうか?これは生きることにともなう難しい倫理的問題である。人間の信は、ほかならない、絶望しきった無力のなかに発せられる嘆きから成り立ってくるのだろう。他方で全体主義者は嘆くことがないし信も無いのである。