伊勢神宮の意味を問う旅ー沈黙する映像と盲目の言葉

伊勢神宮の意味を問う旅ー沈黙する映像と盲目の言葉

 

▼沈黙する映像。飾り気のない素朴なイメージがあるのですけれど、しかし意外にもこの建築物の装飾性は歴史的に、室町時代の大きな影響をもつといわれています。だがそれを確かめようにも立ち入り禁止。この建築物の姿は真正面から見ることも撮影することも許可されません。今日の伊勢神宮は、中世のあり方との連続性が断ち切れた、近代の国家神道の沈黙する神々しい形として存在しています。テクストと信仰の分離、それは、本居宣長の神を外在化させたその古事記解釈に遡る事柄ーナショナリズムの形ーなのです。

▼盲目の言葉。伊勢神宮は、神器としての鏡を、支配者であった古代天皇から預かったのだから、国家日本は、ほかならない、ここに帰属すべしという解釈を出すことをやめません。はたしてこれを言う今日の伊勢神宮は、敗戦後の憲法政教分離に反しないかたちで、たんなる一神社法人としての枠組みに留まることができるのでしょうか?これほど多くの参拝客の熱心をみると、伊勢神宮は、靖国神社と共に、だんだんとこうした祀る国民を作り出している事実の意味について考えざる得ません。いくら憲法が禁じても、国家神道をそう簡単にはやめられないようですね。これが、われわれの伊勢神宮の意味を問う旅が辿りついた結論でした。