操り人形の糸

なぜ操り人形の糸を描くのかと問われると、堅っ苦しくではなく、いかがわしい変な絵と想像していただければ十分ですが(笑)。操り人形というのは、なんか「主体がない」単純な感じですが、折角複雑なものをなんで単純にしてしまうのですかね?近代の人間は常に自己が存在する根拠を考えて主体として自己が宇宙の中心に位置すると考えなければ気がすまないです。この物の見方とは異なる見方を考えてみたいのです。昨日の朱子の自然哲学と仁斎の天道論を読んだ講義のテーマと関わると勝手に思ってますが、思考の優先順位として仮に人を丸だとする、そこで根拠と運動の相補的な関係を以て考えてみるのです。人は自己に先行する<他のもの>と結びつける運動によって(増殖していく糸、増殖していく線)、自己を開いていくというのですかね。そういう<他のもの>として、例えば失われた理における「学び」とかあるとおもうのですけれどね