MEMO

‪安倍首相だけでなく野党指導者たちが伊勢神宮に参拝しに行くようになった意味は何でしょうか?たとえ護憲ではやって行けなくなったとしても、それならば、もはや戦後の国家祭祀をやめたとする誓いに依拠するしかないじゃありませんか。立憲民主党は敗戦後の誓いに立つべきところを国家祭祀との連続性の回復に希望を託しているのですか?そうではないでしょう。‬

安倍内閣公式参拝の場合と違って、われわれ野党の参拝は政教分離にも反しないし信教の自由も反しないと解釈し、また靖國神社の戦前における形の国家神道の復活に対しては警戒しているから大丈夫だとおもっているのでしょうが、だけれど、数年前に思想史遠足のときに、希望をもって伊勢神宮にやってきて参拝する大勢の人々を見ました。若者たちの姿も見ました。危惧する点は、問題は、そうして参拝する人々が存在し、安倍首相と野党指導者たちが参拝し、彼らを迎え入れる神社があれば、この一体となった彼らから、グローバル資本主義の時代の新しい国家神道が誕生してしまうことです。野党は外がどのようにみているかを考えていますか?中国と韓国に不信感を持たれるようでは、安倍政権のアジア外交を正すことも中々無理ではないでしょうか。

後悔は隠しきれぬが、英国が直面している危機は、国民投票そのものではなく、十分に理解されずに承認された理想的内容に修正することを国民投票の呼びかけ人だったポピュリズム極右極のBrexit派が拒んでいる非妥協な態度にある。再国民投票でなければ選挙だが、辛うじて労働党政権成立とスコットランド分離が一層進むのか?

‪68年ともオキュパイ運動とも違う黄色ベスト運動の映像を見ていると、なんか、『監獄の誕生』の囚人の絵を思わせる。マルチチュードが残っているとはこういうことか。まるで中世騎士の決闘もある。農民の国アイルランドだと警官たちが親戚友人がお餅のように取り囲まれて、包囲線がバラバラになる。資本主義が罪深いのは、助け合う人々の間に容赦なく対立を持ち込むことにある

1、マルクスの理解はヘーゲルの理解にかかっている。マルクス教条主義批判( 「私はマルクス主義桃者ではない」)は、ヘーゲルの「精神」ー理念性に尽きるというわけではないーの発見ではなかったか。ハミッド・ダバジの言葉を読む <サバルタン性>とは、手短にいうと、多声で響く私たちの異論の声である。この理念において私たちがすることといえば、弁証法の巨匠(カール・マルクス)自身による弁証法的な見識たる、「私はマルクス主義桃者ではない 「je ne suis pas Marxiste 」という表明に注意を払うことしかない。その精神に基づいて言えば、「私はサバルタン主義者ではない」。 ー ハミッド・ダバジ「Post-Orientalisme ー Knowledge and Power in Time of Terror 」

政府の変転や統治形態の攻防にも生き抜く一神教的神が棲家とする国家をいかに設計するのか?18世紀の思想は天祖概念によって漢字のスクリーンに近代天皇制の青写真をリアルに投射した。と同時に、19世紀には、反リアルに、要請として漢字スクリーンから神と物に向けて神話的に投射することになったのである。思想史は、かくのごとき反リアル的リアリズムのうちに投射は制作となる歴史を語る。20世紀の敗戦後の国家祭祀をやめた誓いを含めて、精神の歴史と呼ぶことができるものを構成しているだろうか

自由民権運動は、政府が憲法を作ることによって、敗北しました。政治が憲法を作る民主主義なんて、フランス人ならば考えられないでしょうね。社会主義を民主主義と考えるならばの話ですが、国家による幸徳秋水大杉栄の殺戮も重要なポイントです。大正デモクラシーというのがありますが、戦後民主主義は自らを大正デモクラシーの継承として規定していますけれど、帝国主義大正デモクラシーなどは満州事変のための統制でしかないものです。結論を書くと、民主主義の思想は存在したが、自分たちのものにすることができなかった。戦後民主主義にとって都合のいいような、ファシズムと対決した民主主義などは潰されて発展することができなかったのです。少しわたしの関心に引き寄せて考えると、近代の超克は、廣松は右翼知識人によるものと言っていますが、これは間違いで、京都学派の左翼知識人による革命の構想でした。しかし天皇ファシズムにとってかわられることになります。革命などは必要のないものと考えていますが(結局支配者が変わるだけですから)、戦後の思想が貧しい理由のひとつは、戦前に存在しなかった民主主義を専ら論じるが、革命の問題を論じようとはしないからだとおもっています。革命は民主主義を邪魔するおぞましいものとして記述されるだけです。しかし近代の超克はほんとうにそれほど超克だったのか?問題は、竹内による日本ロマン主義魯迅論があり毛沢東論とそれを継承する言説。アジアが主体である方法としてのアジアが方法としての中国に置き換えられる問題。