オスカー・ワイルドとはだれなのか?

‪ワイルドの『真面目が肝心』The Importance of Being Earnestは気になる作品です。二十数年前にダブリンで最初に見た芝居でした。アイルランド版『真面目が肝心』に観客たちはびっくりしました。ワイルドの格言好きは有名ですね。『真面目が肝心』と口にする凡庸さを軽蔑的に愛しました。これはワイルドのなんか貴族の世の中に対する距離を感じさせる態度です。しかし現在それは古いワイルド像と言わざるを得ません。ワイルドは『幸福な王子』『わがままな大男』のなかに描いるように、他者につくすアナーキースト‬。つまりあえて貴族の側に位置をとったアンチ・ブルジョワ的作家です。 アナーキーの意味は、ジョイスが影響を受けるのですが、アイルランド人は自分自身をオリエンタリストの記述よりも完全なものを書かなくてはならない。そうして帝国のオリエンタリズムがいかに不完全かを示すことによって自立できるのだというのですね。ジョイスはダブリンに一日を宇宙を構成する密度を以って『ユリシーズ』を書くことになります。 さてほんとうのところ、ワイルドにとって、貴族はどう見えたのでしょうか。

アイルランドは「遅れた国」なので、ラテン語とかを勉強するのですね。詳しくわかりませんが、多分教養という感じではないのですね。古典語の力がみとめられて、ワイルドは英国の大学へ行くことができました。ワイルドはイギリスにきてみたら、なんと貴族たちの物の見方が、互いに正反対にあるとおもわれていたアイルランド農民と物の見方が非常に似ているのかに驚いたといわれています。シングも同じ印象を語っていました。ここで非常に簡単に謎解きすると、英国の産業革命の敗北者は、アイルランド農民だけではなかったのです。イギリス貴族もまた敗北者となっていくのでした。両者ともに反ブルジョワ的反近代的世界観の方向を共有していたというわけなのです。そうして理解されてきた新しいワイルド像のもとに、後期近代のアイルランド版『真面目が肝心』の演出ではワイルドの貴族にたいして共感をもっていた視点を示していたように感じられました。

アイルランド農民が貴族のような物の見方を共有している様子は、フリールの戯曲『トランスレーションズ』において生き生きと描かれています。じつは、アイルランドナショナリズムに「敵」とされているイギリス貴族の価値観が反映されているということがこの戯曲を分析したポストコロニアルの影響を受けている研究は指摘しています。植民地政策のゲール語禁止(ゲール語を話すと罰せられました)の時代に、A hedge schoolで、古典ギリシア語とラテン語の先生たちがアイルランド人に英語を教えましたが、フリールは、ナショナルアイデンティティを形成する共同体のなかに疎外されている人物に、農民=貴族の特異なキャラクターを作りました。アイルランドにおいて近代的測量によって地図が制作され固有名が抹殺されたのですが(ゲール語の名がアングロサクソン化されていく)、ここから目に見えるものと言語と関係が複雑になっていく様子を描いた戯曲は普遍的な批判の視点をもっています。‬このフリールの戯曲はわたしの留学してきた高校生の教え子をとらえました。彼はずっと海外生活で、お父さんが日本人、お母さんが香港人でした(当時は、「香港人」という言い方はマイナーでした)。何と、高校生はアイルランドと香港を重ねて考えてみたのですね。今日彼は現在展開している香港の市民の運動をどうみているのでしょうか?意見を聞いてみたいですね‬