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書かれたものにおいて書き手は不在となる(ブランショ)というように、思考のなかで投射されたものにおいて投射するものが不在となるのだろうか?
『朱子語類』の鬼神論を読むこと。構成的であるのは、死を共有する働きであって、この共有が行われた後に冷静さを取り戻して樹立される学問的言説(伊藤仁斎、新井白石)ではない
英国人はナショナリズム的パニックを起こすと純然たる資本主義へ駆け込むのは契約国家だからだろう。比べると、日本人は人格的偶像に駆け込むのは根底が祭祀国家だからではない
近代主義者の中で一人ジョイスが全体主義から逃れ得た。その植民地主義の本質に反発して、弁証法的否定の永久奴隷でも土地奪回を欲するは領土を欲す植民地主義者と同じだと見抜いた
竹内好の「方法としてのアジア」はジョイスの「方法としてのアイルランド」のアジアにおける適用だったと考えてみる。日本がやるべきことは中国に民主化を求める自らの民主化である
何が<前>で何が<後>か?
何が<先>で何が<後>か?
思考の実体において何が<前>で何が<後>かが問題ではない。思考の形式から、何が<先>で何が<後>かを考えることが問題なのだ。実証的な時代順にいうと、江戸は昭和の<前>にあったし、同じことだが、昭和は江戸の<後>にあった。だが『江戸思想史講義』(子安氏)の序文を読むと、「方法としての江戸」に、「方法としてのアジア」が重ねられているのがわかる。言説空間的には、「方法としての江戸」に、竹内好の「方法としてのアジア」が先行する。解体=思想史的に構成された連続性において、「昭和」は<後> だが論理的に<先>であるし、また「江戸」は<前> だが論理的に <後>だと考えてみる。どういうことが言えるか?竹内においは、アジアは、イスラムがイスラムを排除して成り立つ近代化すべてを受け入れることができないように、アジアを排除して成り立つ近代ではやっていけない。これが「近代の超克」論を「方法としてのアジア」として理念的にとらえなおしてみる竹内の構成だとわたしは理解している。ヨーロッパ国家の対抗である日本近代が帰結した対中国の戦争と天皇全体主義をやめるためには、再びそれを推進した日本近代に委ねるのは倫理的に不可能だ。ここから、はじめて、本居宣長における儒教知識人批判の思考ー日本は日本の自立を排除して成り立つ中国文明すべてを受け入れることができないと考えたかもしれないーの意味を明確にすることができる。彼の思想は言語的・注釈的立場をもっていたので近代主義が捉えていたようには一元主義でなくて多元主義の方向をもったと理解できる、というか、これは、「方法としてのアジア」の多元性から理解できるというべきか。最後に、わたしは明治を考えるために大正を考えてみようとおもうのである。大正は日比谷公園焼き討ち事件から始まり満洲事変で終わる統制の時代だ。しかし、権力の全てを天皇に集中させた国家権力ー昭和ファシズムの先行形態ーによって恐怖のうちに取り除けられるが、幸徳秋水と大杉栄の市民として生きる思想ー震災後にラディカルになっていった小田実に見出されるようなーが大正に誕生した。だが明治は、昭和が市民の思想家をもった大正の理想を失敗したように、江戸の理想を失敗したのである。永久革命的に直線的にに発展していくような「明治の精神」は幻想と言わざるを得ない。
アイルランド文学の名物といったら、仕事がなくて酒飲みで政治談議ばかりしていて、母に家を支えて貰っている父親に怒る息子。息子の背後で躓く非オイデプス的父の存在
W.B.イェイツは夢で父親に殺される息子の主題がある。無意識としての植民地主義?電話に父親が出て娘にかわって貰えず達成不可能だったあの十代の挫折というか(違うかな)
W.B.イェイツの作品にビザンチンという解釈が非常に難しい詩がある。わたしに力がなくて説明できないが、ビザンチンというのはイスラムと複雑な関係をとった。西欧を包みかえすビザンチンのかわりに、ビザンチン「として」なのかな、ヨーロッパの端にある、アイルランドのあり方を考えたイェイツ。これは、岡倉天心は中国と中国美術ではなく日本においてとらえ直すアジアの芸術を考えたわけだけれど(岡倉天心の講座に和辻哲郎がいたらしい)、比べたら中々面白いのだろうけれどね。岡倉はアジアという曖昧な観念に、日本の博物館としての明確なイメージを与えることができた。どうやら偶像主義の和辻はこれに影響されるわけ
アイルランドは文学が大切。会計士でも日常会話で、文学がdouble meaning だと学んだと語る。本と同じ厚さをもつ可能性のある注釈の存在を知る物の見方は豊かだ
ナショナリズムは固有なものか?英国ブルジョワとの階級闘争に敗れた貴族の価値観がアイルランドへに逃れた。収奪者がもった自然観が農民の国のナショナリズムを構成したとしたら?
農民のアイルランド人が大陸でなりすまし貴族になっていたという話を聞くとびっくり。農民か貴族か普通間違わないとおもうのだけれど、たびたび起きるのはどう説明したらいいのか?
文学で読み解く思想史のモンタージュ。宣長の言語的同一性の理念と『古事記』テクストの見方を再構成する言語的・注釈的立場。ジョイスの言語的多様性の理念と『ケルズの書』の見方を再構成する言語的・注釈的立場。
ジョイスは多元言語的アナキズムで多元主義。ただし標準英語に依拠していたという指摘もある。他言語が自言語に先行することを英語で書いたのだ。
宣長は従来の神道の枠組みを逸脱する国家神道を考えたが、彼の思想はジョイスと同様の言語的・注釈的立場をもっていたので近代主義が捉えていたようには一元主義でなくて多元主義の方向をもったと理解できる。宣長の国家神道は明治以降の国家神道の近代にあらず、明治の靖国神社が近代建築だったようには
本居宣長は何を見たか?彼の眼の前に他言語が自言語に先行していた。だから「宣長にあって「やまとことば」の理念は、古代に向けられた彼の眼差しから何を隠し、何を取り去ることで成立するものであったのかが問われねばならないだろう」(序 方法としての江戸、子安氏『江戸思想史講義』岩波書店1998)
ジョイスは『ケルズの書』に何を見たか?彼の眼の前に他言語が自言語に先行していた。だからジョイスにあって(確信がなかった)<自分で決めた亡命>的多元主義の理念は、古代に向けられた彼の眼差しから何を翻訳することで成立するものであったのか?FWは世界中の諸言語に翻訳されてオリジナルとしてのジョイスが現れてくるのだろうか?そのジョイスも翻訳するジョイス自身を翻訳しただけなのに。存在するのは翻訳のプロセスだけである。自然と書記言語が一体になったものを信としてたたえた精神をともなうことがなければ、「バベルの災厄」、再び諸言語への拡散ではないだろうか
「維新」という日本近代の限界は自らを語るその瞬間に、その限界は炸裂してしまうので、再び、語ることができることと語ることができないことの距離ー原初的分割ーに連れ戻される
パロールはランガージュに定位しておらず、心の言葉も社会に占める位置がないこと、いつの時代にも現れる構造であり、現人神に表象される。しかし象徴性を過剰に超える行い(祀るパロール)を許すと、憲法における国民主権の根本が崩れてしまう
言語の端 、くりかえし <ここ>に、自分がやってきたというのに、<ここ>があたりまえに中心だったと教えられる。端が拡散しはじめて自分も自分の自分も誰もいないと感じる
『さまよえるオランダ人』。ひとは自分が不利になることがわかっているのに彼方にかくもたやすく惹かれていくのはどうしてなんだろうか?嗚呼、さまよえる日本人
哲学者かつ芸術家は政治を批判するときは哲学かつ芸術からである。哲学は知識人の言語。だから哲学と芸術では伝わらないからといって責任のない文化人のように喋ることは許されない
哲学と芸術は開かれているが固有のものをもたないから伝わらない。文化は固有なものだから伝わる。文化の包摂は仕方ないのか?それならば私は何とか開かれている文化を考えてみよう
フーコ『監獄の誕生』(1975)第三章一望監視方式は、「ある都市でペスト発生が宣言された場合に採るべき措置は、17世紀末の一規則によればつぎのとおりであった」(田村訳)。1980年代後半に読んでも実感がなかったが、現在読んでみてリアルにわかる。われわれは、「まず最初、空間の厳重な基盤割りの実施」があった近代の始まりの時代を、垣間見ているのか。しかし何故それはまさに近代が終わろうとしている現在なのか?
表象理論は本と商品が注釈と交換によって二重化することを語る。博物学も生殖が大切。だが理論は偉大でも、人間にとって不可欠な芸術は貧しくてやっていけぬわけを説明してくれない
表象No.1 「人格者」、表象No.2 「庶民的」、表象No.3 「叩き上げ」はどれも盗みである
演劇とはなにか?なぜ演劇は人間にとって不可欠なのか?
今日はネオリベだが、スターリズム、『資本論』、原発安全神話、天皇ファシズム、不完全な理論ではなく完全な理論のもとで人間は喋れなくなった。この理論は完全な理論ではないが
中曽根が首相のときに25年後にこうすると言っていた公式参拝の国家神道復活、軍国主義復活、徴兵制(経済徴兵)ーが全て実現してしまった。小泉と安倍が棺桶を運ぶ吸血鬼の国葬
最悪の大統領はイラク市民百万人を殺したブッシュ息子。政治責任が問われていない最悪の(元)首相もいる。そのイラク戦争を支持し靖国参拝を行い原発事故に責任のある小泉父
なぜ安倍政権とこれを継承する政権の歴史修正主義が問題なのか?ヨーロッパ国家の対抗である日本近代が帰結した対中国の戦争と天皇全体主義をやめるためには、再びそれを推進した日本近代に委ねるのは倫理的に不可能だ。アジアは、イスラムがイスラムを排除して成り立つ近代化全てを受け入れることができないように、アジアを排除して成り立つ近代ではやっていけない。このことを歴史修正主義は忘却させる
表象理論は本と商品が注釈と交換によって二重化することを語る。博物学も生殖が大切。だが理論というものは偉大でも、17世紀における表象理論のように表象の表象を根拠づけるほどの「完全な」理論でも、人間にとって不可欠な芸術は貧しくてやっていけぬわけを説明できないのだから、思想フェチ、哲学フェチの物象に陥ってはいけない。20世紀の構造が席巻する時代に人間は消滅したが、だけど再びあえて人間を舞台にあげて、構造を超えて言語に集中する演劇を私はみる。そうして、アルチュセールが言うように、剰余価値の理論を表象理論に適用できないだろうか?『さまよえるオランダ人』において示されたように、ひとは自分が不利になることがわかっているのに彼方にかくもたやすく惹かれていくのはどうしてなんだろうかを問うとき、表象は盗みであると考えてみたらどういうことが言えるか?「人格者」「庶民的」「叩き上げ」は盗みである
津田大介、安倍に土下座。
「問題の責は彼個人ではなく」、「安倍政権で噴出した問題とは、安倍前首相個人にその責があるのではなく私たちそのものの問題である」
佐伯啓思は安倍が先導した歴史修正主義的ナショナリズムとヘイトスピーチの犯罪的仕事を理解できていないのか?あるいはそれを誤魔化そうとしているのか?
「疑いもなく、近年、これほど「仕事」をした政権はなかった」、(だが「旗」が不鮮明であった、それゆえ)「成し遂げたものは何かと問えば、明瞭な答えはでてこない」
アイロニーとはなにか?
イギリス人のアイロニーのセンスはアイルランド人が持ち込んできたとよく言われます(<ーまた、アイルランドですか?) アイルランド知識人の書く一行に詰まっている皮肉の数は驚異的ですが、この1ページにいったいどのくらいの数の皮肉が書かれているのだろうとおもうとき、本を読み終えたときは皮肉にまみれて超すごい嫌な性格になっている自分を想像できるというんでしょうか...アイロニーは精神的なものです。秩序の裏側に別の秩序があると考えてみようとする思考の柔軟性のことをおもいます。ヘーゲルやサルトルの全体性に絡み取られることはありません。アイロニーは渡辺一民氏の関心をとらえました。アイロニーというのは批評精神であることをあらためて考えています。アイルランド知識人はアイロニーの批評精神が旺盛で(よくデリダが参照している)ジョイス文学を利用してデリダのエクリチュール論を論破してしまうほどなのですが、正直なところ、デリダの思想の意義をみためたうえで(脱構築はアイロニーですから)、なぜあそこまでアイロニーを以ってデリダを論破しなければならないのかわかりませんでした。単純に、声のプライオリティーを言っているのではありません。
あるいはこういうことかもしれません。デリダの思想は音声中心主義のグローバルの思想にたいする抵抗ですが、しかしデリダの言うことだけを聞いていたら、グローバリズムとたたかっているアイルランド(植民地主義で抑圧されてきた地球の多数派)の立ち位置がわからなくなるよということなんだとおもいます。批評精神が成り立つためには、普遍を解体する脱構築だけでは足りませんよ、地域の思想も一緒に必要ですよと。たとえば、グローバルのレベルでナチズムのファシズムとの思想闘争を論じることは大事ですが、それだけで、もし地域のレベルで天皇ファシズムとの思想闘争を考えなかったら意味がないようにですね。地域の思想は抵抗ですが、しかし問題は、ヨーロッパの言語で翻訳されたような地域の思想ではダメだろうということです(オリエンタリズム)。
考える必要のある思想家達を含めてこういうことは全部、子安宣邦氏の『「維新的」近代の幻想』(作品社)の終章「北京大学講演」のなかに書いてあります。
デリダ『声と現象』:声と音声的エクリチュールの特権性を、ソシュールの言語学を踏まえフッサールの現象学の批判をとおして示す。意味作用は自分が発し自分が聞くという声における現前性に存在し、記号を離れた純粋な思考の存在を前提とする形而上学への批判を、差延、代補などを用いておこなう(哲学bot)
執筆中
ヨーロッパにおけるサルトルの復活がいわれていて、それはポストコロ二アリズムからの読み直しをいうのであろうが、そこで「他者」として指示されているのは、アフリカ・アジア・ラテンアメリカにおいて読み出される反近代のあり方である。わたしはそれに反対しない。だけれどわたしはその手前で、『存在と無』が「他者」にいかに接近していくのかを読んでみたいと思うのである。最後まで読み通すことができない。サルトルは「対自的」存在と「他者」との問題をいかに書くのか?「存在」は「本質」に先行している。この方法論は至るところに書いてある。サルトルは「存在」の問題から離れることなく、ここから「他者」の意味も考えなければならない。哲学においては、"これ"を否定するとか"あれ"を否定するとかよりも否定の力の普遍が要請されているように、存在を包摂するような関係の一般性よりも<この関係>という多様性が要請される。対他的にここからしか、他者と均くもつ自由の意味を考えることができないと言っているように読めるのである、全体性の真理に絡むとられることなく、というか。わたしの読み間違えをおそれずにいえば、知識人というものは「存在」について語ろうとすれば、「他者」の構造に連なる「対自的」「対他的」は切り離してはいけないのである。
写真は一望監視方式監獄の鎧戸、『監獄の誕生』のなかでフーコが分析している。こんな場所では冬は凍え死んでしまう。実際に多くの囚人が死んだ。天窓に表象される言説的なもの(「大英帝国」の恩寵の「善」とか、お好きなら柄谷や汪暉の朝貢体制的な「中華帝国」の「高度な互酬X」でもいい)。震えた人間は可視的なもの、さしこむ光を仰ぎ見ただろう。宇宙と対自的自己を包摂する国家はこう設計された。現在進行形で、設計されようとしているというべきかもしれない。今は国家というものはアベチャンネルの解釈のなかに棲んでいるけれど
執筆中
『言葉と物』は、主体と客体、鑑賞者とモデルが永遠にその役割を換え続けていく様子を書くのだけれど、『監獄の誕生』において見るものと見られれるものの関係をかく書き方は、『言葉と物』のそれとは別である。人間はコミュニケーションの主体になろうとするが、情報の客体の側にいる。空間の分割が鍵である。
昔読んだ本なので記憶があやしいが、思い出しながら書いてみよう。『監獄の誕生』を読んだとき面白いと思ったのは、フーコは監獄から話しはじめたのではなかったからである。その前に、ペストのときの隔離とか、動物園のことを書くことによって、空間はいかに分割されていくのか分析している。
この本に分析されている一望監視方式の監獄は、ダブリンにある。植民地時代の監獄を博物館にしている。天井の光は善の光であり、それと同時に、大英帝国がもたらす光であったわけだ。こんな所では冬は寒くて凍え死んでしまうだろう。それぞれの独房の囚人たちは少しの熱を感じようとして天井を見上げたに違いないと想像する。一望監視方式の監獄は動物園のように公開を前提とした監獄である。ここを訪れた人々は、どういう罪を買えばどんな罰を支払わなければならないということがはっきりわかる。罪と罰は商品と価格に対応しているというわけだ。いつでも鎧戸を開けて中の囚人の様子を見ることができるようになっている。これは恐ろしいことだ。囚人はいつでも監視されていてだれが監視しているかわからない。鎧戸という実に簡単な仕掛けで監獄のコストを最大限に低くできるという。
フーコによれば、言説的なものー「最大多数の最大幸福」で知られる功利主義の善と悪を計算するアイデアーが建築に反映されているかといえばそうではないという。言説的なものと可視的なものは互いに独立しているとフーコはみる。
フーコはフランス革命の近代を考える。フランス革命後はアナーキズムと国家秩序との間に揺れ動いた。1789年のフランス革命は完全な革命ではなかった。革命はクーデターの軍国主義にとらえられてしまう。それは明治維新の場合とおなじといえるだろうかいまわたしは考えているのだけれど。軍国主義の規律と訓練が国家の秩序にとって都合のいい従順な身体を作り出していくに違いない。これは学校のモデルとなる。問題は、監獄の外部は一望監視方式の監獄の内部と違いがなくなっていくことをどう考えるかである。監獄の外部もだれが見ているのかがわからない。監視の権力に中心はない。現在はメッセージをネットワークに送るときにコミュニケーションの主体になろうとして他者を望んでいるが、現実は生活の隅々まで見られている情報の客体となっていて相互監視の網目を築いている。これについては、21世紀のアジアでの新しいコンテクストで考えることになりそうである。
安倍政権の7年8カ月とはなにか?これを問うことがカウンターウエイトだ。われわれが知っている知識で考えることを諦めなければいけない。その知識はあちらが支配しているのだから。「安倍個人の責任ではない」と恰も安倍に教え合られた通りに語るようではあちらの知識から喋っていると言わざるを得ない。われわれは、安倍政権の問題はアジアの民主主義に貢献することがゼロだったという事実をみとめたうえで、制度論的な見方から7年8カ月を語るべきだ。アジアは経済がどんどん進むが、何故言論の自由が一向に進まないのか?日本がやるべきことは中国に民主化を求める自らの民主化である。しかし安倍政権のもとで公式参拝の国家祭祀と軍国主義とが復活してしまっただけではない。安倍の歴史修正主義的ナショナリズムのせいで日本の戦争責任が無くなったようである。これが歴史修正主義の安倍政権の7年8カ月である。しかしこれではこれからどうやってアジアの民主化を呼びかけることができるのか?呼びかけてもアジアのどの国も耳をかさない。隣国と隣人からの信頼されていないからである。信頼関係を構築するために、われわれができることは、歴史修正主義の安倍政権が依る明治維新の近代を問うこと、この国は正しい「始まり」をもっていたのかというところからはじめることだろうとおもう。新聞がこれをやらなければ、われわれ自身でやるしかない
『言葉と物』が世に出るまで、『ケルズの書』が書記言語を称える意味が分からなかった。『フィネガンズ・ウェイク』の『ケルズの書』を見ながら書かれた本のイメージもはっきりしてきた。『言葉と物』は本の二重化が起きる注釈学の意味を明らかにした。『言葉と物』の思考から現れた『映画史』は映画の二重化である、と同時に、現実が映画のなかに溶けている世界の二重化である。映画の消滅後、思想史へ行く。そして特筆すべき点は、『言葉と物』はヨーロッパの外部で江戸思想史講義によって充実することになった。2021年は、800年を要した12世紀から展開した思想の運動の言語化が完成する年になる筈だ。思想史はイメージが先行していたのだ。思想史の身体は網の振動の部分である。かくも言語がイメージより遅れたのは、言語として自身に介入してきたからだろう。思考実体にたいする思考の形式。思想史の二重化ー確立した思想史の見方のなかでそれとは別の見方を書く、これがはじまる。
20世紀は精神分析と構造主義であるが、17世紀は完全なる理論と考えられた表象理論があった。知は、表象の限界から、18世紀から19世紀にかけてカントと子安氏が注目する伊藤仁斎が考えたような、経験的世界における有限性としての人間へ移行した。この人間を中心とする言語の拡散から、人間の消滅と言語の集中がおきてきたこの時代に、思考実体ではなく、新たに思考形式としてあえて再び人間を考えてみようという方法がなぜ大切なのかを問うのが『言葉と物』である。どうして、維新的近代におけるヨーロッパ中心主義のグローバルな世界史の見方のなかでそれとは別の見方が必要なのか?たとえば「方法の江戸」「方法のアジア」。別の見方は、グローバルな世界史の見方からみれば、不完全であるかもしれないが、だけど人間が喋れるのはここにおいてである。今日はネオリベだが、スターリズム、『資本論』、原発安全神話、天皇ファシズム、不完全な理論ではなく完全な理論のもとで人間は喋れなくなった、やっていけなくなったのではなかっただろうか?
昔死神にチェスの試合をお願いして彼が次手を考えこんでいる間にうまく逃げ去ったものだが、今度は奴が別のゲーム<東京五輪>を申しこんできた。世界は死の舞踏を練習しておくか
民主党のバイデンはアイリッシュ系カトリックじゃないの。こういう顔の人をダブリンで沢山見たよ!皆んな真面目なひとたちだったなあ
アイリッシュ・カトリックのバイデンがトランプと彼のネトウヨ的ヤジに勝つことは何を終わらせるイメージか?ポストオバマ政権のアイリッシュ・アメリカンの自己発明が多分始まる
ニューヨークタイムズ紙は公私混同的に世界中に自分のビジネスを広めたトランプ大統領を批判。商売の損失を理由に払おうとする税金が6万円だけのこの男は再選されるの?
推敲中
『論語』は隠者をえがいている。微子第十八の隠者は孔子の弟子にこう告げる。流れるものは戻ることがないように、天下もまたひたすら乱れていくのだから、あなたは孔子とともにこの流れを止めることはできない。「この世を避けて野を耕すわれわれに従った方がましではないか」と。『論語』の隠者をどう意味づけるか?子安先生が読み解くように、何を言っても無駄であるというほどの乱世の時代の国内亡命者と解した上で、隠者は現れるときはいきなり孔子の前にあらわれるところから、孔子の自身の中で絶えず繰り返された心の声を意味していると考えられる。『論語』は、権力とたたかう知識人が2500年間、「したたかに」隠者との間で内的対話を行なってきた事実を証言しているというのである。17世紀の伊藤仁斎はこういう。隠者たちは「天下を変えることを欲している。聖人孔子は天下を変えることを欲せられてはいない。天下を変えることを欲するものは、私の道を天下に強いるものである。天下を変えることを欲しないものは、天下をもって天下を治めようとするのである。思うに天下は人をもって天下であり、人を去って天下であることはない。それゆえ聖人は天下は人をもって天下であり、人を去って天下であることはない。それゆえ聖人は天下すなわち人とともに楽しみ、天下すなわち人とともに憂える。いまだかつて天下すなわち人を避けて、独りわが身を潔(いさぎよ)くするようなことはない。」(子安先生訳、講義レジュメより引用)。これは凄い言葉だ。天下すなわち人、と言い切る (朱子的「天人合一」の存在論を解体した後に要請されてくる理念性?)普遍の道に立つとき、革命の道しかないのか。仁斎は他の道をいう。人の道である。仁斎は孔子とともに、隠者との対自的ダイアローグを以て、宇宙第一の場所を語る。17世紀の思想は、天下すなわち他者との対他的関係の絶対性を語るのである。
今回は司会者の評判がいい。ディベートで思い浮かんだ言葉が tripartite。三者から成るの意。中世はケルト、ゲルマン、アングロサクソンで成り立つtripartite mentalityだったとか
7割の支持を貰ったスガだけれど、恥ずかしげもなく愛読書にしていると公に喋る自己啓発本の類には、自己に都合の悪いことを発言する学者たちを罰するなと書いていないのだろうか?
バイデンの父はそれほどでもなかったが母のほうはアイルランドの起源を感じていた。バイデンのように自らアイリッシュ系アメリカ人であると言明することは白人であることの罪悪感から免除されるという
昔ダブリンに「なりすましバス車掌」がいた。拡声器を持ちこんで一番後ろの席から「次はoo、よろしくね!」と乗客達に告げていくお兄さん。憂鬱な気持ちで二度聞くことになる(笑)。counterpartはジョイスが小説に描いたアイルランドの文化。似たもの同士というか人間も、土地の名も二重化するというか
反対者を罰したスガは安倍戦争法の解釈改憲を推進する中心にいた。だから今回で終わらない。またこの政権は憲法違反である<憲法に基づいた適切な判断>をドンドンやる可能性がある
法は解釈しかない。権力行使は解釈がない。権力は実践であり法から独立しているという意味でアンチ法だ。解釈改憲はアンチ法だから、実践の側に解釈が存するという錯認で成り立つ。ま、これは『監獄の誕生』を読み直して考えてみた自説..
デモの現場で警官達は人間が集まるのをやめさせようとする理由は無い。デモなのに権力の側に理由があると考えることが、日常の微視的権力に取り囲まれているよりも酷い臣民化である
権力行使は法にもとづく。この見方はだれも疑わない。だがフーコ的にいうと、一望監視方式の権力が定位している二つのものにおいて、可視的なもの、法の解釈する言説的なものとは、互いに独立している。「もとづく」ことは不可能だ。サルトルが考えたようには権力は悪ではない。権力は戦略的だと理解される。自己自身が構成する権力との距離は複雑である。言説の空間、そこでは「もとづく」ことがない。ジル・ドゥルーズが言うように、死者の息と繋がるリズムをもつこと、世界の中心としての外部をもつこと、他のものに成ること、が要請される。わたしはどれもできていないけれど、たしかにそうだとおもう
昨夜は発情した猫同士でうるさかったが犬が吠えて追い遣った。橋の下の鴨から誘われているように感じたときもこのとき犬の吠え声でハッとしたものだ。死者の息のリズムのことを考えた
敗戦後も明治から変わらないのは西欧中心の教育プログラムである。そもそも「大学」という呼称でいいのかと問われることなく今日までやってきた日本の大学は、国家より先にあったヨーロッパの大学と比べると、西欧国家に対抗した国家の大学だった。憲法において学問の独立や自治権を意味する教授が享受する学問の自由を、コロナの時代に教授でない普通の人々が主張すると一体どんなことが起きるのだろうか?
「愚かなものを有名にするのはやめよう」。これは、デモのなかでマスコミが待っている所にたまたま現れたかのように喋る有名人、国会の中に呼ばれてホイホイいく売名行為も含む
「一流のビジネスマンのリーダーが国を豊かにする」は、税金を払わない理由を考えると、成り立たないが、信者にとって、そんな悟性的矛盾は世界の弱さで、トランプの精神は世界を超えている
カントは啓蒙主義者を啓蒙すればよかった。しかし現在生きていたら、平凡な愚かな者たちを啓蒙しなければいけないので大変だったとおもう
ネアンデルタール人由来の遺伝子がコロナ感染症の重症化に関連する可能性があるという。
ネアンデルタール人とはなにか?
「近年、6万5000年以上前に描かれたスペインのラパシエルガ洞窟の壁画が発見され、ネアンデルタール人が芸術活動を行っていたという見方が強まっている。」(wiki)
スゴイ抽象的な線だよなあ..
文字の誕生は、5000年前?中国で漢字の源流とされる甲骨文字が登場するのは、紀元前1400年(3400年前)頃。
文字が誕生すると、文字がどんどん抽象化していく、他方で線は抽象性を失って具象的になっていく、という面白い考え方があるのだけれどね
子安先生
「天下」の概念については講座「江戸思想史講義下』で勉強しようとおもいます。『普遍的価値を求める』を読んでいないのでわかりませんが、「天下」はポストモダン的(孔子)だと理解しますが、「天下」に「新」と「主義」を加える理解の仕方だと、(市民に「主義」を加えるように)、柄谷が戻っていったモダニズム的なことをどうしても考えることになりそうです。ポストモダンをプレモダンとみなす見方もまだあるようです。また「一」としての実体概念を脱構築的に豊かにするための多様体をどう理解しているのかによって「天下」と「天下主義」の差異があるとおもいます。これから明らかになっていくとおもいますが、こうしたことを考える上で、わたし自身、『江戸思想史講義上』を読み直す必要を感じています。ところでおそれいりますが、もし今月の先生のご講座のご日程を教えていただければ有り難くおもいます。本多
<一>たる帝国主義か帝国をもつ王政復古的天下主義は実体概念を多様体にできるか?<多>のポストモダン孔子的天下ー自言語にとって卑近なものは他言語しかないーに依拠しなければ
橋下徹が、政府の政策遂行の為に、任命しない学者がいてもいいと言います。橋下は憲法を読んだことがあるのでしょうか?総理大臣は、私も宇都宮氏のように考えていて、天皇が自分に都合の良い内閣総理大臣を任命できないように、自分をヨイショしてくれぬ學者の任命を拒否できないのがコモンセンス。妥協してですね、政策遂行のことをいう橋下の言う通りだとしても、スガは選挙で国民によって選ばれたわけではないしその政策も支持を受けていないので、だからこそ普通よりも説明責任があるはずだとおもいます。これも法に書いていなくてもコモンセンス
推敲中
植民地主義の成立とともに成立したのが近代文学ー「意識の流れ」であれ「神話的リアリズム」であれー、ここからみると、帝国主義\帝国から離れた公の世界なき『フィネガンズ・ウェイク』の世界は迷宮であると軽蔑される(反対に、実験精神としてのモダニズムの極限とたたえられる)。公(=近代国家)に従属しない天から見ている、あるいは、天を仰ぎ見ていると読めることは、ファシズムの時代に書かれた本だったけれど、1980年代における起源なき廃墟をいうポストモダンによってはじめて分かってきた。この本について先ず最初に言わなくてはならないことは、これは読めない本である。この言説を前提に、あえて構造主義の記号に行かずに、反時代的にニーチェがやったように、言語学的文献学的に言語とは何かを問うところに留まったとき、われわれは他との自立的交流が不可欠になってきた時代に、「あまりに人間的な...」排除的境界線をなす「われわれ自身」の表象とか「かれら」の表象から離れる外的条件が必要だったのではなかろうか
a word as cunningly hidden in its maze of confused drapery as a field mouse in a nest of colored ribbons
ーJoyce Finnegans Wake
「色つきリボンの巣に隠れる野鼠のように、雑然とした織物の迷路の中にずる賢く隠れる言葉」(FW宮田恭子訳)
見よ、人間を!「自身の大義を求めて償いの儀式のために地下に座る」「巨石のごとき多言語墓跡テミストクレス」(FW 宮田恭子氏訳)。『フィネガンズウェイク』はリゾームなの?
『フィネガンズ・ウェイク』を読むー20のアプローチ
1、『フィネガンズ・ウェイク』について語るのは今だという気がする。この本について先ず言っておかなければならない。この本は読むことができない。それは如何なる不可能性なのか
2、他言語が自言語に先行する構造は『フィネガンズ・ウェイク』の支えとなり続ける。『フィネガンズ・ウェイク』の不可能性は、支えようとしている場所がすでに現在進行中であることだ
3、『フィネガンズ・ウェイク』も天上界の統治権と地上界の統治権との交換が記される。王マークの天を旋回しH・C ・Eは大地を歩むだろうートリスタン物語の媚薬の効果が切れるまで
4、「色つきリボンの巣に隠れる野鼠のように、雑然とした織物の迷路の中にずる賢く隠れる言葉」(FW宮田恭子訳)。シェム=ペンマンの身体に書きこまれる二重化された『ケルズの書』
5、寧ろ普遍言語性は諸言語にあったジョイスの「自分で決めた亡命」は前衛作家の亡命ではない。FWを書くために死ぬまで文法を学んだと聞いたらシュルレアリスム芸術家は屈辱を感じる
6、「レンズ豆のポタージュをこねまわしている方がまだしも」(FW)。エサウは長子権を弟ヤコブに譲り渡す。西欧の対抗国家の日本も市民権を譲渡してしまったのか、戦争と全体主義に
7、『フィネガンズ・ウェイク』も鳥の俯瞰的視点があるよ。他の惑星から地球ー曖昧な本質ーを見渡す。鳥が地に向かって真っ直ぐ降下していくと諸言語のどれか一つがはっきりみえてくる
8、『ユリシーズ』は多様体<地図>。だが帝国の増税のための測量にアイルランドは苦しめられた。だから『フィネガンズ・ウェイク』は国家に囲い込まれない海と全世界の河の名を書いた
9、『ユリシーズ』は昼の本ならば『フィネガンズ・ウェイク』は夜の本。ペンローズ的量子論的コインの表と裏は、秩序の裏側に別の秩序があるように、一体だ。民の本はコインである
10、『ユリシーズ』は言説的文学で議論するソクラテスの精神がある。『フィネガンズ・ウェイク』において隠遁しても、大きすぎる父=神とたたかう。神も言語的パッチワークでしかない
11、芸術は定義可能である。定義する言葉が『フィネガンズウエイク』である限りにおいて。作品を指示してもこの本の本質は<読めない>点にある。両者の間に因果関係はなく原因しかない
12
「ークォーク三唱、王様マークに!号令届かぬ王の声。届いたところで的外れ。」(『フィネガンズウェイク』宮田恭子訳)。第二部第四章は『トリスタンとイズー』のパロディではあるが、ここでジョイスは彼の前に誰も言わなかったことをはじめて言う。マタイ(マシュー)、マルコ(マーク)、ルカ(ルーク)、ヨハネ(ジョン)で表象される「アイルランドの魂」。「語り手は老いており...彼らの精神は弱々しく、眠たげで、その物語のどれ一つとして満足な全体をなさない」(ジョイス)。ここで何が言われているのか?これからはアイルランドはアイルランドをどう観るかという見方に、すなわちジョイスの言説的文学を住処とするということ。だから国家アイルランドはそれとおなじ大きさをもった本を書くジョイス(「自分で決めた亡命」)と共に亡命することになるのである
13、「垂直梯子のついた無階級ビリヤードホールへ行くだろうって。..今日もなお不十分に悪い評価のメモ魔、物書きシェムに奪われた」(FW)。9世紀『ケルズの書』は、12世紀『朱子語類』を読み直すポストモダン孔子において為されたように、過去を水平軸に、現在を垂直軸にするものによって、二重化される
14、見よ、人間を!「自身の大義を求めて償いの儀式のために地下に座る」「巨石のごとき多言語墓跡テミストクレス」(FW 宮田恭子氏訳)。『フィネガンズウェイク』はリゾームなの?
15、『フィネガンズ・ウェイク』では囲い込まれない海のイメージが揺れている。只何かの上に佇む言葉はイメージより遅れたのは、言語として自身に介入するからだろう
16、「あのすべてを夢見る星凝視者には自分が何を見ているように見えるものなのか?答 衝突遁走万華鏡!」(宮田恭子氏訳)。『フィネガンズ・ウェイク』とはなにか?答 宇宙の劇場
17、『フィネガンズウエイク』の「二人の洗濯女」の会話に世界中の河の名が書いてある、将来若者達が自国の河の名を発見できるようにと。ジョイスは名を与えて世界を制作する聖人か?
18、『フィネガンズウエイク』は物語『トリスタンとイゾルデ』を利用して、鳥のマーク王の上昇と下降を書く。終わりに魂は上に身体は下に行く。逆だ。初めから死から見られているのが精神だ
19、『ケルズの書』の文字装飾が書記言語を称えていたと分かってきたのは『言葉と物』に依る。ポスト・バベルの『フィネガンズ・ウェイク』は『ケルズの書』を見て書かれる必然があった
20、<一>と言おうと<多>と言おうと、ジョイスのどの部分に視点を置くかの視点の問題か。しかし帝国における<多> を包摂する<一>に抵抗する民主主義を書いたのではなかったのか
21、人間が佇むのは、『ユリシーズ』では赤線地帯の円盤式蓄音機から地下棺桶に繋がる電線の上に、『フィネガンズ・ウエイク』は「巨石の如き多言語墓跡」の下に広がる海の上において
22、アイルランド文芸復興運動とはなにか?『フィネガンズ・ウェイク』(FW)に、古代観の差異、すなわち「われわれ自身」(our own self )における<復古>としての古代か、それを「割れた召使いの眼鏡」(『ユリシーズ』、Joyce)とみた構成主義的多様性としての古代かの差異がある。アイルランドの文学的言説の、その言説上に構成されるアイルランドの自己像の差異である。そして独立か自立かの政治をめぐる議論と深い関係があるに違いないとおもうのである。
わたしも『論語』を読める
「支那学」(フランスの中国研究)は『論語』を翻訳するときはこれをオリエンタリズムによって構成するのである。日本の中国研究者はフランスに留学して帰ってくる。現代中国語に通じている彼らはフランスの支那学から『論語』の意味を考えるのである。たとえば下のフランス語を読むと、「人」をles hommesと訳している。おそらく一般の読者は人間に天を表象する。しかし「人」は人間なのだろうか?これに対して、四年間われわれが読んできた「仁斎論語」は17世紀の注釈のある書き下し文をベースにしている。「支那学」の近代の読みとは別のものである。仁斎が注釈を与える「人」は「天」を仰ぎ見ている。心のなかの天をみる人間の近代はない。そして「我を知るものは其れ天か」というとき、その「天」から見放されているときの絶望の深さは比類のないものである..
子曰く、我を知ることなきかな。子貢曰く、何んすれぞ其れ子を知ること莫きや。子曰く、天を怨まず、人を尤めず、下学して上達す。我を知るものは其れ天か。
Le Maître dit: < Nul ne me connaît !> Zigong dit: < Purquoi nul ne vous connaît-il?> Le Maître dit: < J n'accuse pas le Ciel, Je ne blâme pas les hommes. J'étudie ici-bas, et je suis entendu d'en haut. Seul le Ciel me connaît.>
精神世界とプラトニックな世界と物質的世界は互いに無関係ではなく、全体性に包摂される構造でもないあり方で、互いに他に根づかない関係を保つ関係をもつーペンローズの多元主義
推敲中
<多>のポストモダンの時代に、<一>神を考えることの意味は何だろうか?設計された建築物ならば解体できぬものはない。近代の<一>神も、建築物と同様に、言説のパッチワークによって設計された。思想史的にいうと、言説Aの領域から切り離す、と同時に、他の言説Bの領域にくっつるという方法をとる。例えば、超越性と内在性が共存している言説平面(スピノザ)から内在性を切断したあとに、この超越性の境界の下に、超越者を解釈するかに媒介者(ヘーゲル))を接合すれば、<一>神の制度ができる(はず)。(仮にそう考えてみるとして、このためには、複数の言説平面が必要であるといえる。) ポストモダンの時代の『映画史』のGod(-ard)の成立もそんなパッチワークじゃないか、どうかしら?さて映画研究者がいう説話的語りとは何かが長い間よくわからなかったのだけれど、近代の一神教的成立と関係しながらもそれほど説明し尽くしてしまわず言語化できないものをほっておく直接体験が語る語りは映画を映画として成り立たせるナレーションの条件だと思う
(図はPenroseより)
スガ政権の拒否で<俯瞰的・総合的>ー自由に喋ることを追放するー国家主義が表象される。「学問の自由掘り崩すのか」の「学問の自由」は「日本学術会議」よりも大きくなってきた
逆に、公民権運動の時代に銅像を打ち壊さなかった。だが差異を消去する近代では差別が一向になくならないので、現在はアメリカでは差異を差異としてある権利を確立していこうとするのか。差異化は最終的には人種の言説を終わらせようとする。白人至上主義のほうは差異化に対すただの対抗言説で、その実体は、エリートの入り口が人種的に多様化した時代のナショナリズムに絡みとられた反格差の声(“われわれはだれか?ほかでもない、彼らではないわれわれ自身である”)ではないかと思わせる。さて差異化は大変危険な戦略であろう。ネグリ&ハードが言い出した問題提起、正直これについて書くことに躊躇する。わたしの理解も十分ではない。公民権運動とともにでなければ、継続することが中々難しいのではないかとおもう。日本においては戦争責任すら解決していないところで起きている差別の問題がある。再びアメリカに話を戻すと、それを「ファシズム」と呼んで決めつける日本近代は残念ながら意味の場を極端に狭くしていると言わざるを得ない