書くこと 100−200

11 書くことは並べること。ガリレオアインシュタインも方程式に裏側はない。思想の言葉は裏側ー思想家ーをどうしても考える。だが常に思想家がそこにいるのか?思想史ならば存在する

12 世界は痕跡である。起源を問う近代は、何処からきたかに答えるために遠くへ行く。近代とは別の考え方は、眼の前に見ているものこそが隠されているものだと考える。痕跡が答えである

13 世界とは痕跡の他にない。ラス・メニーナスは、眼の前に見ている世界こそが隠されている世界である。『古事記』も、眼の前に見ている言語が隠されている言語。漢字しか書いていない。世界とは痕跡。『古事記』には漢字しか書いていないとはいえ、再び漢字に起源を見いだすような悪循環を避けるためには、思考を可能にしてくれた「不可避の他者」の存在が要請される

14 理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと孔子はいう。この孔子の言葉をどう理解するか。仁斎の詳しく書いた注釈があるが、簡単ではない。これについての『仁斎論語』の評釈が助けてくれる。これを読んだ後に、情を言語化するというか、「情」はどのように語られてきたか知的に語ることの大切さを考えた。宗教ならば、禁じられた怒りを語ることに価値がない。論語』は彗星のように流れる実に短い言葉でさりげなく、知識人にとってのタブーを破っている。また心をどうとらえるか。理を心によって置き換えることはできない。聖人の教えは仁にもとづくのであり、これは心によっては支えることができないのではないかということを考える。ここで、性は理であり(性即理)、心が支えることができないのではないかということもあらためて考えることになった。理気二元論コスモロジーが批判されている仁斎においては理念性が要請されているこの点が重要である。難しいが、仁斎は、理から切り離された「仁」との関係をもった情動を語っていたのだろうか。心の本体(性•本心)が大切なのではない。仁斎は、「仁」に向かう心の動き、慈愛の心という他者に向かう心の動きを重視する。「仁」は仁斎において愛である。人が生まれながらに持っている、四端の心ー惻隠の情、悪を憎む心、謙譲の心、物事の是非を見きわめる心ーが再構成される。ドゥルーズ哲学にとって大きな意義をもつ反ロゴスの情動について、ヒューマニズムのモダンではなくポストモダン的に、仁斎における理念性とともに考えたいとわたしはおもっている。しかし情動を再び別の体系で体系化することに意味はない。面白くもない。最初からわかっているが、情動は言遂行的に意味をもつことができると思っている


15 書くこと並べること。世界は「怒り」をどう語ってきたか?マルチチュードは草原に燃え広がる情動として語る。理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと言う孔子の言葉をどう理解するか

16 世界とは反ロゴスの情動。川を挟んで洗濯する二人は、夜、世界の中心を外部のstem(幹)と石(stone)におく。あちらへ流れこちらへ流れる水に成るために

17 世界とは「文明国家」。政教分離の観念はキリスト教がはいってきていた江戸時代にあった。明治は西欧から来た人々に適用する政教分離を示し、かつ、国家神道政教一致を確立した


18 書くことは並べること。世界とは思考の自由。数を数で数えることならば易しいが、数に正しさ(矛盾がない)を理念化すると難しくなる。エクリチュールは孤児であるほうがいいか


19 世界は思考の自由。理念的なものを思考の明確なイメージを衝突させよ。イメージは方法としてある。だが高く遠く外にある近代主義的理念は、対抗的に呼び出される実体に絡みとられる

20 世界は戦前に戻らない誓い。戦争する普通の国にならないことは易しいが、理念化すると難しい。絶対平和主義と、合同演習で軍隊が国の外に出ている解釈改憲が両立してしまっている


21 書くことは並べること。世界は表層的なものである。神話も映画も根底に民族はない。というか、根底なき表層的なものである。両者は民族を越えるものではないか。世界映画は世界神話におけるようなものとしてある。草の根運動のプロ化と失われた自発性を問うただけのアイルランド映画は、ナショナリズムの映画とされるのはなぜか?ナショナリズムの破綻を表現していると解されるのはどうしてか?それは少なからず映画の世界性によるとおもう


22 世界は解釈である。解釈の解釈で忙しい。憲法改正前に解釈で改正済。解釈改憲による軍国主義国家神道(公式参拝)の復活、国民がノモス的主権を譲った解釈改憲的象徴天皇。国は何も無い

23 19世紀の復古主義は考えることができなかったものを考えるために儒教経書を新しい読み方で解釈した。近代日本は国学からしか生まれてこなかった。神道儒家神道だった。エスタブリッシュメント政教一致的な「国体」を考えた。問題は明治維新の王政復古化。現在からみると、長州が京都から連れ出した天皇にノモス的主権者が奪われてしまった歴史だった。今日ギロチン台の首みたいなただの札の肖像になってしまったが、明治が確立しておらずまだ可能性があった時代に、societyを人間交際と訳し、「人民people」を考えたのは、福沢諭吉。それはみとめなければいけないとおもう。子安先生の福沢諭吉論が中国語に翻訳されているらしいが、福沢も新しい読み方が必要である。


24 書くことは並べること。世界とは運河である。イギリスも自由があるが、おなじくらい規制もある。イギリスから規制を取り除くとオランダが出来上がるというのがわたしのオランダのイメージ。スペインから独立した時代にユダヤ人を受け入れていったのは、気にしなかったといわれる(清潔にしないといけなかっただけ)。気にしないことは易しいことではないかとおもう。だれでも入ってくるアムステルダムの運河をみると、考えることは、先ず他者を信じることが先行している。そういうことを近所のユダヤセンターでイギリスの有名なリベラル知識人が喋った。なるほどとおもってこの話を聞いていた。しかし気にしないことを理念化すると難しくなるに違いない。気にしないことはどうして正しいのか、これを言語化しなければいけなくなるから、個人主義とか国民思想とかで。リベラル知識人はユダヤ系住民で占めた聴衆者から猛反対をうけていた。いっしょに、カール•ポッパーもやっつけれていた

25 どうして日本では権力集中を問題とするものがマイノリティを排除するファッショ的人物と政党しかいないのか。果たしてこれは遅れた日本近代の問題か?近代主義に立つとファシズムを問題とすることができる。近代はもっとホンモノにならなければいけないと。しかし近代主義を批判するポストモダン的言説からは近代主義ファシズム批判は成り立たない。もう近代は終わっているからだ。ポストモダン的言説は次のように問題を再構成する。権力集中の問題は言説の問題である。つまり明治維新の王政復古化の問題を隠蔽している問題だと。またマイノリティ排除の問題は、歴史的に、<韓>の排除を前提にした国家の成り立ちにかかわる問題だとみる。福沢諭吉に責任がありそうな、反アジア•反中の言説をどう考えるか。近代主義は近代化が進まないのは中国のせいだと繰り返し非難してきたが、これは近代主義の根源的錯認と言わざるを得ない。近代主義の近代国民国家を語る高く遠い理念は対抗的なナショナリズム(民族主義)を呼び出してしまうのである。

26 世界はもっと言語を集中させなければいけない。だけれど、ポストモダンは、主体を否定しきってしまうと、戦前の天皇ファシズムの復活はあり得ないが、安倍政治が解釈改憲の国家祭祀復活(公式参拝)と解釈改憲的象徴天皇(国民のノモス的主権の譲渡)を前提に皇室に依存しないナショナリズムを組織化するなかで、これにたいする抵抗を行うことができるのだろうか


27 書くことは並べること。「子曰、天生徳於予。桓魅其如予何」(『論語』)は次のように書き下される。「子の曰く、天、徳を予(わ)れに生ぜり。桓魅(かんたい)、それ予を如何(いかん)」。漢字文化の日本語では主語(「天」)は常に漢字である。「テン、トクヲワレニショウゼリ」と書くこともできるが、「てん、徳を予れに生ぜり。」は文法性は保たれていても、受けいれることができない(grammatical but unacceptable )。主語は漢字でなければいけない。ここで、漢字の表意性によって、「天」の意味はわかるから、読まなくてもいいのだ。さてもし主語面に帰るあり方に文化的意味を見いだすならば、漢字の表意性に帰るあり方を見逃してはいけない。それと、「天生徳於予」と、「天、徳を予れに生ぜり」を並べてみると、「生」(用言と体言)に「ぜり」をおくことによって活用化している。国語的説明では、用言は、体言にたいして、活用化しているというけれど。西田幾多郎のように、主語面に帰るよりも述語面に帰るあり方に文化的意味を見いだすならば、漢字(中国語)を利用した、体現の用言化のことをみる必要がないか。わたしは言語の専門家ではないので間違っているかもしれないが、漢字は不可避の他者である、解体-日本思想史からみえてくることについて言うと、日本文化が漢字文化であるのは、主語面に帰っても述語面に帰っても漢字に依ることなくしては成り立たないあり方をいうのではあるまいか


28『言葉と物』の新しい表紙は、ベラスケスの絵画だが、フーコが汚されていない表象的記号と呼ぶ画布の裏側が省かれている。原画が醸し出す異様な感じがしない、自然な絵となっている。本の表紙と、表はなにが描かれるかが隠されていない原画の二つを比べると、絵の中の人物と裏側から見ているわれわれの傍らに王の不在を考える。東アジアにおける現代の問題を絵に読みとることができるかもしれない。われわれが見ている四角形の表(タブロー)の中心に、国家の名がある。われわれはわれわれと彼ら自身を描く(書く)画家とともに、漢字文化の命名制作を見ている。大いなる他者が漢字を与えてくれ思考を可能にしてくれた漢字が現在は一国の母国語として音声化しているのに、隣国及び国内マイノリティにたいして王の存在ー帝国の支配ーを主張している。精神は声が思考できない存在だからこそもつ「われわれ自身」における本性的•優越的地位に従属させられる

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29 書くことは並べること。世界とは、定義可能なものと定義不可能なもの、定義してはいけないもの、二重化されるもの、二重化がいらないもの、とを覆うものと覆うことができないもの


30 世界は定義する。世界は芸術を定義できる。例えば『フィネガンズ・ウェイク』一冊を以って定義できよう。だが世界はファシズムを定義してはならない。理念化の問題があるからだ。近代主義がやるようにナチズムまでも理念化してしまうと、日本はファシズムが存在しなかった。しかし天皇ファシズムは存在した


11 世界は隅々まで二重化できるか?近代主義は隅々まで二重化する。二重化は近代主義の物の見方なのである。そうして本居宣長を二重化する近代主義は自ら分裂させた本居宣長の二重性に驚きを禁じ得ない。宣長における文献的実証性と教説的国家主義の分裂を指摘する。宣長の古意を解釈するため方法として古代人の心を仮定しているー理念的なものではないーが、近代主義に実体化されている。近代主義宣長から国家神道を切りはなす。しかしこの宣長から国家神道を切りはなすことはできはしない。この場合、宣長の生きた江戸時代に国家が無かったのだから、宣長ハイデガー問題として、宣長と(国家の時代にしか登場しない)ファシズムとの関係を明らかにしたのは、近代主義の根源的錯認と言わざるを得ない。この根源的錯認を前提に、近代主義宣長から国家神道を切り離している。天皇ファシズムは国家祭祀の近代化である。この天皇ファシズムが問題となっているところに、ヨーロッパのファシズムを前提に、宣長ハイデガー問題を語り出している(なんのために?)

12 書くことは並べること。世界とはいしころたち。路でどれかをひろう。8個を上下左右のポケットにいれる。どれかを取り出して他のポケットに入れる。繰り返すとそれらは裏側へ行く、たくさんある小さな入り口。宇宙の鏡を立てた言語の果てから見るー汚されていないくしゃくしゃになった物で書かれたもの

13 世界とは不均衡なまま安定してしまったものか、あるいは、世界とは均衡したまま不安定であるものなのか。独裁に慣れてしまうのはどちらか?明日革命が起きるのは一体どちらかなのか?

14 世界は書く\描(か)く。「書く画家」としての世界が描くのは、トポロジー的地図みたいな反デザインのもの。"Ecrire c'est dessiner" 終わるために終わることができる、至る所微分(不)可能な、解体-思想史が表現される線を展開できるか?最近は音楽をイメージに貼り付けている。ネットのだれも利用しているテクノロジーをのおかげで、やっとイメージと音との関係のことを考えることができるようになるのか?

15 書くことは並べること。思想史とはなにか?思想史を書くことは並べること。<と>を外部化する、解体ー日本思想史の平面にブラックホール的なものとホワイトホール的なものが存在する。仁斎は無鬼神論ではないが、ブラックホールとしての死より生を論理的に先行させるようないわば検閲的領域で、人が人として成り立つ学の意義ー有的存在が無限となる可能性ーを実践のなかで問うた(『思想史家が読む論語岩波書店、)。ここで、仁斎から書きはじめるのもこの理由がある。 17世紀の市井の学者である仁斎はまた、孔子における世界-内-国内的亡命のあり方をはじめて言った(『仁斎論語ぺりかん社)。この場合は、徳のない乱世にたいして「東海に浮かぶ筏」を以って距離をとったのとは違って、引退しても公を正す批判をやめない「国内的亡命」のことが言われる。晩年孔子は自分の中で絶えず、自然の中に隠れる隠者と対話していたのではないか。多分当時孔子のように自問する人達が一杯いたとおもわれる。「国内的亡命」と子安先生が呼ぶのはどうしてか。わたしの理解では、サイードにおけるアドルノ達亡命者の観察による(亡命者は権利は与えられていないが、全体を見渡す特権を持っているかのようであった。)
形而上学とそれを批判した超越的なものを考えようとする契機として、『伊藤仁斎の世界』(2004)、『「歎異抄」の近代』(2014)の清沢満之論、「仁斎学講義 『語孟字義』を読む」(2015)の仁斎における朱子との思想闘争をあらためて読むことは意義があるとおもう。
さて鬼神論は、思想史に言説的情報をどんどん生み出すような、GeistやSpirit、精神的なものを表象する、ホワイトホール的なものである。鬼神論はアジアの共同体が共有した。朱子の鬼神論ー所謂「無鬼論」かと理解されているーにはじまる、徂徠の<制作論的有鬼論>、宣長の<国学的有鬼論>、篤胤の<民情論的有鬼論>。朱子学脱構築した江戸思想史を論じた『江戸思想史講義』(岩波書店2010)を発展させて、今度は朱子をポジティブにとらえた講座「第二江戸思想史講義」において子安先生が展開するこれらのものは、ほかならない、アジアを考えることによってはじめてよく認識できるものである。現代における柳田の一国知的鬼神論の問題を考えることができるとおもう。「四書」はアジアにおけるバべルの災厄だった。
鬼神論を学んだこの三年間、朱子は言語の透明化であるが、言語を半透明にしていく江戸思想史のことを考えた

16 世界は、on the line 線上にある。「四書」はアジアにおけるバべルの災厄だった。鬼神論を学んだこの三年間、朱子は言語の透明化であるが、江戸思想史における、言語を半透明にしていく、多元主義の線を考えた
17 書くことは並べること。世界の平面は、ブラックホール的なものとホワイトホール的なものが存在する。ブラックホールとしての死より生を論理的に先行させるような検閲的領域で、人が人として成り立つ学の意義ー有的存在が無限となる可能性ーを問う

18 世界は、GeistやSpirit、精神的なものを表象する。鬼神論はアジアの共同体が共有した。思想史に無と有をめぐる言説的情報を豊かに生み出した、ホワイトホール的なもの

19 ヘーゲルは最初から思弁的ではなかった。バタイユヘーゲルの政治論的言論の形而上学化である。脱構築的至高性から、国家理性=聖なるもの=権力政治への徹底的批判が可能となった

20 世界とは亡命的なもの。外国のデモで捕まったらヤバイ。国外追放の危険があるデモ参加は「間違い」でも、国の全体がみえる外国人だからこそ私のことではなくてこの国のために自由に喋らせてくれとおもう。
21 世界とは大いなる筏である。17世紀の市井の学者である仁斎は孔子における「世界-内-国内的亡命」(子安先生)のあり方をはじめて言った。この場合は、徳のない乱世にたいして「東海に浮かぶ筏」を以って距離をとったのとは違って、引退しても公を正す批判をやめない「国内的亡命」のことが言われる。晩年孔子は自分の中で絶えず、自然の中に隠れる隠者と対話していたのではないか。多分当時孔子のように自問する人達が一杯いたとおもわれる。「国内的亡命」と子安先生が呼ぶのはどうしてか。わたしの理解では、サイードにおけるアドルノ達亡命者の観察による(亡命者は権利は与えられていないが、全体を見渡す特権を持っているかのようであった。)
東海に浮かぶ筏」については、東夷も徳があれば中華になれるとする解がある。「筏」は徳なき政治からの亡命ならば、それは亡命である以上、政治的なものであり、自分では決める自由はないだろう。乱世から逃れることを考えた「孔子」は沢山いたに違いない。国内的亡命の場所をさがすのは「筏」の場合とは異なる。老荘的に隠者のように自然に隠れるかどうかは、自分で決める自由がある。やはりこの場合も、「孔子」たちがあちらこちらに大勢いたのではなかったか。
22 論語』は君子の謙譲的エートス(「人は人としてあれ)」を書いているが、身分のある臣下のためにあるものである。しかし17世紀にはいってこれを身分なきもの(商人や農民)が読むとき一体何が起きるのか考える価値がある。ただし、ここで、「人」を「人間」と訳しては問題がある。『論語』は江戸の学者たちが注釈した。これらを読めば、『論語』は対自的関係(我と汝)か対天下的な関係が書いてある。ここで概念を定義したりすることは殆ど無い。しかしフランス語訳は「人間」が真理の舞台で認識するようにされているそんな感じである。そもそも、「人間」と言われるものの成り立ちは「人」にたいして優越的な真理を求める近代である。近代オリエント学はイタリアではじまる。中国研究は支那学と呼ばれる。詳しく書けないが、『論語』の現代語訳は、フランスの支那学を勉強して「人間」homme をみる見方で行った学者の翻訳によるのである。これは『論語』のヒューマニズム化である。圧倒してくる近代文献学の体系的な研究にもとづくが、はじめに、見上げる他者(ヨーロッパ)と見下げる他者(アジア)とが交差していることを知らなければいけない。近代からヨーロッパはアジアにたいしては真理的知の権力をもっているこの問題は、よく知られるようにサイードが指摘している点であるが、『言葉と物』のフーコがやるようにヨーロッパをヨーロッパ自身に関係づけて知を中立的に(自動機械仕掛け的に)自己完結化してしまうことが果たしてできるのか問われる。分かりやすく言うと、隠蔽されている知の従属の問題から逃げてはいけない。「人」を「人間」の意味でとってしまうと、ヨーロッパ知の主体は集中するが、江戸思想の言語は拡散してしまうだろう。これは単に翻訳の問題ではない。他者との関係の問題である。

Foucault (渡辺一民訳)

博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、なかんずく言語(ランガージュ)についての反省が文献学となり、存在と表象がそこに共通の場を見出したあの古典主義時代の<言説(ディスクール)>が消えたとき、こうした考古学的変動の深層における運動の中で、人間は知にとっての客体であるとともに認識の主体でもある、その両義的立場をもってあらわれる。従順なる至上のもの、見られる鑑賞者としての人間は、「侍女たち」があらかじめ指定しておいたとはいえ、ながいことそこから人間の実際の現前が排除されていた、あの<王>の場所に姿を見せるのだ。それはあたかも、ベラスケスの絵全体がそのほうを向いているのにもかかわらず、その絵が鏡の偶然によってちょうど無断侵入とでもいったように反映しているのにすぎぬ、あの空虚な空間のなかで、これまでそれぞれの交替とか相互排除とか絡み合いとか散光といったことが推測されてきたあらゆる形象(モデル、画家、王、鑑賞者)が、突然、その知覚しえぬ舞踏を止め、充足したひとつの形象のなかに凝結し、ついに肉体をそなえた視線に表象の全空間が関係づけられることを要請するにいたったかのようなのである.

Lorsque l'histoire naturelle deviant biologie, lorsque l'analyse des richesses deviant économie, lorsque surtout reflexion sur language se fait philology et que s'efface ce discours classique, où l'être et la representation trouvaient leur lieu commun, alors, dans le movement profound d'une telle mutation archéologieque, l'homme apparît avec sa position ambiguë d'objet pour un savoir et de sujet qui connaît; souverain soumis, spectateur regardé, il surgit là, en cette place du Roi, que lui assignaient par avance les Ménines, mais d'où pendant longtemps sa présence réelle fut exclue. Comme si, en cet espace vacant vers lequel était tourné tout le tableau de Vélasquez, mais qu'il ne réflétait pourtant que  par le hazard d'un miroir et comme par effraction, toutes les figures dont on soupçonnait l'alternance, l'exclusion réciproque, l'entrelance et le papillotement (le modèle, le peintre, le roi, le spectateur) cessaient tout à coup leur imperceptible dance, se figeaint en une figure pleine, et exigeaient que fût enfin rapport à un regard de chair tout l'espace de la representation.

23 書くことは並べること。世界とは、鏡が映しだす汚されていない画布の裏側と窓、黒インクの旋律、ニーチェ、映像と共にある音の差異化していく「大きな力」

24 世界とは死に切った過去。記憶できないが忘れることもできない、そんな規則のないものに、規則を直に適用できないけれど、規則を緩やかに保って解釈を与えることはできる。復古主義

25 世界は目覚めることのできない悪夢。死んだか生きているのかわからない過去。死に切った過去は反復される同一性の形式ではなく差異である。復古主義は差異化である

26 書くことは並べること。世界とは非在郷。マルケ王は召喚する、クォーク三唱、号令をかけても的外れ。物語と言説、雑多なものをことごとく召喚する宇宙的平面

27 世界は亡霊のひそひそ話。魂とは、消滅してしまうまえに、小さな入江の波ーずっと眠りこけていた耳にそそがれる毒ーだった。小さな声で大それた真実を告げる
28 世界とは…..世界よ、きみにひとつ忠告がある――いいかね、きみは帽子をかぶって、手に杖を持って、出て行くんですね…どんどん歩いて行く。あとも振り返らずに歩いて行く。遠のけば遠のくほど、ますますいい

29 書くことは並べること。世界とは根源、空、理である。ギリシャは世界における根元性について初めて考えた。インドは根元が空だと考えた。これは中国にとって思想革命であった。根元が理であるコスモロジーを考えていく

30 世界は、「水」の明確なイメージをもっている。それは包むものである。包むものは包まれない。「水」は包むためには包むものをもっていなければならない。タルコフスキー

31 ヘーゲルは最初から思弁的ではなかった。バタイユヘーゲルの政治論的言論の形而上学化である。脱構築的至高性から、国家理性=聖なるもの=権力政治への徹底的批判が可能となった

32 書くことは並べること。世界とは4つの大罪である。ヨーロッパのわれわれ自身の起源の罪、アメリカのそれを補うわれわれ自身の無起源の罪、西欧と異なる日本の祀る神は祀られる神の罪、西欧とは別の近代があると自負する中国の孔子を真っ二つに割る罪。一番めの罪はよく知られているが、三番めと四番めのはまだ分析されていない。三番めに関しては、日本知識人は古代には戦う国家の死者を祀る天皇と彼が定位する全体のために歌を書いた高さから、今日『資本論』的全体を読むこだわりを示す罪をおかしている(世界資本主義の分割としての帝国のあり方を分析できたけれど。) 帝国と帝国主義の区別がはっきりしなくなってきた独裁的皇帝のために彼らが全く知らなかった理論を捧げている?ロシアの皇帝が社会主義に仮装した罪もあるが、無垢で残酷な子供だから仕方ない。現在は、米・拡大EU•中国の帝国化と共に、皇帝的資本主義の帝国になった(日本よりはデモの自由があるみたい)
33 書くことは並べること。世界とはなにか?ギリシャ人は世界における根元性について初めて考えた。インド人は根元が空だと考えた。これは中国人にとって思想革命であった。根元が理であるコスモロジーを考えていく。
世界は「枢軸時代」(ヤスパース)。孔子「世界- 国内的亡命- 存在」(子安先生)だった。プラトンとエレミアと仏陀も、此方からみえる向こう側を考えた。
世界は「論語空間」。天皇・貴族•寺社が独占した学は江戸の武士政権によって民が共有できた。市井の学者さんが行った中世の朱子学脱構築である「論語空間」の形成を読み、「朱子空間」の再構成の近世•近代を考える。
世界とは構造である。言語からみえる向こう側を、数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く

34 書くことは並べること。世界とは物の見方である。聖人は教えるから偉いならば、教える独裁者が称えられることだって。仁斎は聖人孔子は学ぶからスゴイと言う。学ぶ人はだれも聖人になりえる。「教」のと「学」、どちらが民主的か?

35 聖人は命名する。「鬼神」の命名によって国家を制作した。聖人は文字無き時代に「敬」の概念を考えた。だが人の無い時代に思考を考えることが可能か?声は考えると答える者は「漢字借り物」論を言う。漢字ではじめて声を考えているのに

36 伊藤仁斎山崎闇斎の「敬」を捨てて古義堂を開いた。闇斎塾に集まったのは武士。下級武士は近代化の推進者。王政復古は明治維新の「教」化である。「教」字は鞭を含んでいる

40 アイルランド知識人はケルト神話は民族が支えるというような見方を問題にしていた。『古事記』は日本民族が支えるという見方はいかに江戸思想史において成り立つのか現在考えている

42 沖縄の問題を考えた吉本隆明は『古事記』を分析したのはどうしてなのか?沖縄からみえる向こう側ー神話を語らなければいけないのか?神話の根底にある民族の存在とその思考(<われわれ自身>)の権利を証明したいのか?だけれど人間は17世紀に成立した。人間が存在しない時代に思考を考える意味があるのだろうか?

43 ナショナリズムの思想は正しいか否かは答えることはできない。ナショナリズムの言説はいかに成り立つのか、思想史はどう考えるかを考えてみることはできる。思想史とは言説史である

43 書くことは並べること。『論語』は文•徳•忠•誠と並べる。朱子は自己否定の観念はすごい。仁斎は曖昧な観念だけれど、学と行いにおける道徳的自立性が一体であること、難しくない日常の卑近において自分のものにする忠が一番大事だという明確な思考のイメージをもっているとおもう。易しいものも理念化すると難しくなることも考えている。

44 書くことは並べること。狂気と天才。ヒトラーが生まれたからアーレントが現れた。イデオロギーが語る世界を説明し尽くす死。思想史が書くあり得た別の世界の囲い込まれない活動的生

45 世界への投射から消してはならないものがある。天皇が語った神話を稗田阿礼の記憶を媒介にして「このままに」に『古事記』テクストの上に実現してみせたのは、漢字知識人たちだった

46 世界は此方から見える依るべき包摂しつくせぬ大きなもの、この見えないものに名を与える消去できない制作主体、永久革命の世界への投射に抗して命を超える耐久性を作品に与える制作

47 世界は誰が見る?『女官たち』の画布の裏側からみえる彼方向にも、画家から見える彼方にも、「人間」は不在だ。先験的経験的二重体の人間は形而上学的空間に定位していないから

48 表象的記号である画布の裏側からみえる向こう側は依るべき包摂しつくせぬ大きなものか。この見えないものを描く(書く)制作ー名を与えるー主体を消してはいけない。画家から見える向こう側は此方側にある。たしかなことは、17世紀は「人間」の不在を表現していること。世界とは構造である。言語からみえる向こう側を、数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く。

49 ベラスケスのラス・メニーナス』の
画面から制作主体である画家を取り除くと、われわれ自身の肖像画となる。同様に、『古事記』の本文から、制作主体である漢字知識人の書き手を取り除くと、姿は見えないがひそひそ声のわれわれ自身の起源となる。人間(人)のいない時代に遡って人間(人)の思考を考えることに意味があるのか?思考不可能なものを思考すること、これも人間の解釈の言説を構成する。)

48 17世紀において人間はデウス・エクス・マキナdeus ex machina)である。画布の裏側からみえる彼方と画家からみえる彼方との間の安定していた不均衡ー王位の空白ーを解決するか

49 世界は歴史を書くこと。書くのは誰?18世紀吉宗の蘭学解禁、宣長国学で中国の影響から離れた後、近代日本成立は国学から。応仁の乱で崩れた権門体制の再構成。天皇•貴族•下級武士•宗教者•軍人•官僚が19世紀における新しい支配体制を書くー江戸時代の差別と比べることができないほど差別の拡大が起きた(全アジアに広がる)

50 丸山真男はこう語る。「名より実へ、主観的道徳より客観的人倫態へ、の徂徠の工作をして、バベルの塔を建築するに終わらせない為に残された方向はただひとつ、道の背後に道を創出した絶対的人格を置き、この人格的実在に道の一切の価値性を依拠せしめるよりほかにない。徂徠学における先王及至聖人はまさにかうした究極的実在として登場するのである。」
In erecting a system that places substance over name and objective human relationships over subjective morality, the only way to avoid erecting a Tower of Babel was to establish an absolute personality standing behind the Way as its creator. All the values of the Way had to be rooted in the personified entity. In Sorai’s system, the Early Kings and the sages emerged as such ultimate entities. 

「自然の秩序の論理の完全な克服には、自らの背後になんらの規範を前提とせずに逆に規範を作り出しこれにはじめて妥当性を賦与する人格を思惟の出発点に置くよりほかない。徂徠が「夫れ道は、先王の立つる所、天地自然に之有るにあらず」(弁名下)といふ時、先王は実にかうした道の絶対的作為者たる意味をもつものであった。」
 
If the theory of natural order was to be completely overcome, no normative standards of any kind could be present in the background as the premise; instead, the starting point had to be human beings who, for the first time, invented norms and endowed them with their validity. This role of absolute inventors of the Way was precisely the role Sorai assigned to the Early Kings. “The Way”,he said, “was established by the Early Kings. It doesn’t exist naturally in heaven and earth.

丸山は「自然」と対抗的に措定される「作為」の問題を指摘している。結局は、近代主義のゼロからの出発ー永久革命ーを語りきかせている。しかし荻生徂徠は『弁名』で本当にそんなことを言っているのだろうか?儒学知識人の徂徠は天を否定されたら考えることが全くできなくなるとおもうけど。丸山は徂徠の命名制作論を全然理解していないのではないか。丸山の語り口は、明治の知識人が徂徠=ホッブスという等式で、支配の根拠を物語っているみたいなところがあって、そもそもホッブスは政治の根拠を問うた思想家なのに、この彼から支配の根拠のことだけをきくかのような日本知識人の理解は酷く偏っていないか?

51 書くことは並べること。世界とは、『17世紀のペラスケスの名画「侍女たち」は「人間」の不在を表現している』に言い表されている。鏡、窓、人物の眼、画布の裏、部屋の入り口、画面上の対角線と交差点そして表象自身。これらに表象されるものは多様である
(「多様性の統一」というような内部に絡みとられたレッテル貼りは不可能)

52 「四書」はアジアにおけるバベルの災厄だった。世界は「遺失物を預かっているので受け取りに来い」というが、だけれど「物で書かれたもの」は「物の形亡くしたもの」になってしまった現在は、「可畏きもの」の逃げ去る痕跡を辿って歌う詩人だけが..

53 ヨーロッパへ行くとき、「神の存在」という問題から逃げることができない。逃げても、ヨーロッパを出たとき、アジアの漢字文化圏は神をどう考えてきたのかを考えている

54 他者が存在した痕跡は主語にある

漢籍とは前近代の中国において中国語(漢文)で書かれた古典籍を指すが、漢籍を読むために仮名が作られた歴史と文化を学ばずに、ヨーロッパでJapanese alphabetを教えることができるだろうか?ニーチェは物の見方の違いは文法の違いによると言っていた。この点については、時枝が発見したことが大変重要で、日本語の主語は漢字である。日本語に関心をもつ者ならば漢字を書こうとするものであるから、彼らに、主語が漢字でない文は精神的に価値のある思考を構成できない、と、そう考えてみたらどういうことが言えるかと問題提起できる。その場合、「漢字は概念を表現する」という理解でいいのか?日本の国家的成立とともにあった、『古事記』は、制作プロセスを説明する序文が証言しているように、中国と朝鮮の知識人に育てられた、漢字知識人たちの存在がなければ実現しなかったのである。そうして、日本語の主語は漢字であることを考えることは他者の問題を考えることである。最近は、言語支配者の中国がこの他者問題をどう考えるのか興味がある。「表現する」とはなにかを問う哲学的問題もある。他者が存在した痕跡は主語にある。痕跡を消す者は、主語を述語とともに規定する場の固有(共同体-内ー存在)を言うのではないか。学ぶことは尽きない。

52 ゴダールにとってアルファビル的世界とは構造である。言語的命題論理(=カメラ)からみえる向こう側を、構造主義的数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く

53 世界の根底に恐怖としての屈辱が存在する。この屈辱が左翼的方向にいけば道徳性になるし、右翼的方向にいくとナショナリズムになる。現在は左からの声が小さい

54 世界は劣等感である。アイルランドの劣等感、スイスの劣感感、ヨーロッパの国々の劣等感はすごいのなんのって。何か日本は劣等感があまりない。西欧からこんなに馬鹿にされていても

55 書くことは並べること。遠藤周作が書いた西欧への劣等感からは逃げられない。また中国人は世界のどこにいても中華を感じることができるとすれば日本人は世界のどこでも東夷でもある

56 世界は根源的錯認。われわれは疑う、ゆえに、われわれ自身は存在しない。米国語しか知らないくせに、「アイルランド英語で大丈夫か」とわざわざ言ってくる日本人は自己が普遍的知識人であるという錯認にある。また漢文を読まないのに(大正知識人から読めなくなった)、コミュニケーションの手段でしかない米国語が精神的価値のあるものかと文化的に見下している。この優越感は自分は周辺を見渡す中華に立っているという錯認ではないか。東夷のくせに。デカルトが疑ったみたいに、次々にこうした錯認を考えると、日本人は固有なものとしては存在しないことがわかるというもの。

55 われわれはアジアにおいて考える、故に、われわれは無神論とともに存在しない。アジアの共同体をめぐる言説は、自己否定の明確な観念よりも 祭祀共同体の曖昧な観念をもつ。これと、西欧の無神論と比べるとそれほど無神論的でないような鬼神の明確な言説的イメージ(民を聞く学者的議論)を衝突させる。儒教知識人は宗教改革を推し進めた朱子においてそうであったように民における祖先崇拝の伝統を否定しない。またアジアの影響のなかで、19世紀の異端的知識人である平田篤胤は柳田邦男の「先祖の話」を準備した「民情論的有鬼論」であった。ロゴスの論理的順序としては、先行するのは「生」であるから、「生」と「死後の世界」と一緒にしてはいけないが、だからといって、「死」が無視•否定されることにはならないのであって(また魂の消滅についての議論に唯物論的解決を与えるのではなくて)、孔子の「迎える魂がなければわれわれはやっていけなくなる」、これが鬼神の明確な言説的イメージである

56 世界よ、何も変えるな、すべてが変わるために!ヌーヴェルバーグの盟友トリフォーの死が『映画史』の制作の契機だったといわれるが、最近は姉の死のことがいわれるようになった。ゴダール(God-ard)は映像は復活するだろうという聖書の言葉をひく。ロゴスでもなく作用と働きでもない霊魂のことか?霊魂はなぜ、消滅しないのだろう。共同体のために。祭祀儀式におけるのとおなじである。その場合子孫は観客である。だけれどそれだけではないだろう。新しく映像を復活させるためではないか。ゴダールはタルコフスキのようには映画の外部を信じていない。ゴダールは初めてこのことを語った。映像の復活、これは映画においてである(言説<スクリーンは死装束である>)。映画において映像が復活する。何も変えるな、すべてが変わるために。そうして世界に向かって己を投射する、自己写像的な思考の形式が成り立つ。

57 書くことは並べること。世界とは曖昧な観念と明確なイメージ。自己否定の観念が明確でも精神的従属の体制に曖昧ではね。香港は曖昧な観念であるが、精神的従属の体制のもとではやっていけない明確なイメージを与えてくれた

58 世界とは言論の自由である。言論の自由によっては覆せない絶対的権威に対しては暴力が正当化されるとしても、国家の側に同じ規模の暴力を作ってしまう

59 世界は非対称性である。宇宙物理学の記述する初めに救われる思いがしたのは、党派的兄弟殺しの原初的罪とは別の、消滅し尽くすことのないイメージを与えてくれたから

60 書くことは並べること。世界は思想史を書く。学は倫理的共同体とともに成り立つか?これは、知の平等な共有を語ったマルクス主義から書きはじめなければならない

61 世界はなぜ地名が二つあるのか?ヘッジ•スクールではボランティアで英語を教えていた先生が古典語の文法の知識しかない場合もあった。学校でアテネから求婚されたと空想してしまって古典ギリシャ語で返事を書く農民がでてくる芝居の名は、『トランスレーションズ』

162 書くことは並べること。世界とは此方<と>彼方。われわれは此方にしか関心がないときは彼方はないし、彼方しか関心がないときは卑近な此方はない。<と>を理念化すると難しくなる

163 世界は超越的なものを考える。親鸞<と>仁斎を考える。親鸞は、此方から彼方へ、此方から彼方へ運動する、往生還相と考えた。仁斎はロゴスと働きの二元論ではなく気一元論を考えた

164 世界は此方と彼方。朱子清沢満之は、絶対平等の此方からみえる、絶対無限の彼方を考えたかもしれない(子安先生)。ヨー ロッパに最高のものがある。アジアの彼方がヨー ロッパの此方を包むためにはそれを超えるものをもつ必要がある(竹内好)。このことをアジア主義は気がついたが、アジアを侵略する戦争で破綻した

165 世界は此方と彼方。ゴダールはテレビの此方からみえる、彼方を考えたー土地なきインディアン。その映画の名は、here&there •こことよそ

166 世界はアイロニーである。論語』はアイロニーの微言。孔子は志をもつが制作の秋(とき)に非ず。社会主義時代のポーランド知識人が砂場で遊ぶしかない自分達の姿を撮ったビデオメッセージを思いだす

167 日本も権力者を笑う狂言があるが、抵抗の文化を為すアイロニーに届かない。アイルランド作家が書く一行に10個のアイロニーがある。一頁読み終わったら相当に性格が悪くなっている

168 英国のアイロニーのセンスはアイリッシュがもちこんだらしい。BBC放送作家はハロルド•ピンタをはじめユダヤ系。ある日、ダブリンの映画館で私の前に座って自分の映画をみていた

169 どの他と比べて大きいものは一つだけ。だから無限とは一つである。それは神でなければ自然であると。スピノザの存在を語るときに隙間なく全てを説明し尽くす冗談に笑うしかない

170 書くことは並べること。世界は文法的なもの。荻生徂徠も、あのオスカー•ワイルドも、江戸の漢文(中国語で読め?)とラテン語ギリシャ語の文法性(英国に行く前にアイルランドで身につけた)のおかげであれほど高い精神性をもった文を書くことができた


171 世界は存在が存在する。存在とは、言語的存在である人間が存在の意味を問うあり方である。存在は、アジアの普遍主義の中でそれとは別の見方から、存在の差異としての意味を問う。つまり鬼神をめぐる言説はどのように鬼神の存在を語ったか?あるいは精神Geistをめぐる言説はどのように精神の存在を語ったか?鬼神を名づけることと国家を制作すること、原初的なあり方に遡ることと神話的起源を指示すること、共同体の成立を考えることと魂の救済を考えること、相互に支えあうこれらの物の見方が、童子問』(有限的存在が無限になるのは学によってである)、『仁斎論語』(隠者との対話、孔子における世界-内部的亡命)において明らかにされた有限的存在者としての言語的存在である人間が行う存在の意味の問いー生と死の有限の此方からみえてくる、世界-無限ーにかかわるとわたしはおもう。

172 魯に帰る孔子の前に隠者が現れる。『論語』は、われわれの文化にない孔子の内部的亡命を語る。だが隠棲と国内的亡命の区別は難しい。『フィネガンズ・ウェイク』もその区別が難しい

173 国内的亡命を扱った能や歌舞伎の古典作品は私が知る限りでは存在しない。日本近現代文学は恰も亡命者のように生きるヨーロッパ的自己とその疎外を描いても、それは内部的亡命だろうか

174「弱腰だけれど逆らってやる」と、映画ぐらいのものを抵抗の文化にする身振りとジェスチャーをもつ彼方は、負けても、隠棲でない、われわれの文化にないような内部的亡命の形がある

175 ゴダール『映画史』は映画とは何かと問うても、「何々だ」とは語らない。「思考の形式」とだけ。全てのものはヌーヴェルバーグが称えた過去の監督達の身振りとジェスチャーで書いた

176 世界は、要請または排除に尽くされるものではなく、迂回に包摂されるものではない。デカルトというのは、要請される知または実証主義的経験知のしらふに行くのでもなく、形而上学的知の覚醒に行くこともないというんだね、何となくそれはわかる。デリダだから明らかにできた差異というか、これほどわかりにくいこともないし、翻訳で益々わからなくなるが(溜息)、フーコのデカルト論を差異化している、デカルト懐疑主義のラディカルさ、差異こそが、他者の岬を支えているとおもう。

177 
「あらためて」とは何か?どういう意味なのだろうか?
子安先生のブログより(思想史の仕事場からのメッセージ)

「第二江戸思想史講義」では朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見るのではなく、東アジアに成立した唯一の普遍的な思想体系として見ることから、あらためて日本の近世・近代思想の読み直しを考えるものです。


178 世界は新しい普遍主義を模索するが、極右翼の影響で非常に悪い形でこれを探さなければいけないようだ。普遍主義をあらためて見直す。「あらためて」という言葉、その意味は何か?

179 世界は修復不可能。記憶の中では、ダブリンの映画館に行くと、説明もなく、勝手に上映作品を変えている。「畜生、またか!仕方ない、これでも見るか」と、諦める。映画がはじまる。「なんだ、この映画は!?」。しかしその映画のフィルムが切れた。真っ暗のなかで何十分も修復を待つ。と、「次の映画の客が入ってくるのにそこでお前は何してんだ」と呆れたスタッフがわたしに告げにくる。このスタッフはフィルムが切れたことも知らない。後ろをみるともうほかの観客もいない。わたしが最後のひとりだったようだ。一応説明してみた。スタッフは確認すると言って何処か行ってしまった。帰ってこない。別のスタッフがやってきた。「勝手に入ってきちゃ駄目だ。外で並んで待っていろ」という。追い出される。なにも知らない出口で並んでいる人たちから非難の眼差しを浴びる。なんでここにきたのかわからないし、なんでここを出なければいけないのかもわからない。しかし人生なんかそういうものだった、あれは天の声だったんだんじゃないだろうか、と、今朝雲空を見上げてやっと気がついたのである。と、ショーン・オケーシーの演劇『ジュノーと孔雀』(1924)をおもう。題名は、ギリシャ神話に出てくる女神ヘーラーのローマ名、ジュノーが孔雀を従えた姿で登場することが多いことから、苦悩するヒロインをこの女神に喩えたものである。内戦の時代の作品であった。銃の政治が終わらない。アイルランドは修復不可能だった。ラストは追放されたように、ジュノーは家を出て行く。結局だれも救われない。労働者階級にとってこのまま、絶望だけだ。しかしこれ以上ここにいても意味がなかった、少なくとも外に出たことだけはジュノーが得ることができたことなのではないか..

180 書くことは並べること。天命の自由と人義の自由。中江兆民はフランスから帰って漢文を勉強した。自由民権運動の為に思考可能な漢文を書く。翻訳の問題に還元できぬ他者の問題がある

181 世界とは、見つめてくる本。思考の柔軟性を可能にするものは、一文一文が緻密にできている、どの一文も曖昧だけれど、全体における明確なイメージがある
182 世界はフェルメールの絵のなかに表象される。シャンデリアである。それ迄は普遍主義のなかで普遍的なものを考えたが、多元主義の方向を以って普遍的なものを考えることになった

183 映画を語るとはプラトンの洞窟にセザンヌの光を与えること。このヨーロッパを語る光は外部にある。岩戸隠れ伝説についての解釈の言説は神話を語る光が洞窟=民族の内部にあるという

184 書くことは並べること。なにが<先>で、なにが<後>か。12月9日は「王政復古の大号令」が出た日。。近代日本は復古主義からしか成立しなかった。問題は、王政復古で天皇に全権力が集中したまま昭和10年代に全体主義軍国主義が同じ方向を向く。視線が<先>で、観念が<後>だった


185 書くことは並べること。映画史と思想史。映画史は視線と観念の時間的順序を問題にする所で、思想史は<前>と<後>の論理的順番を問題にしている。映画史はわたしにおいて思想史に置き換えられている。天皇ファシズムは視線が<前>で(王政復古の壁画)、観念が<後>である(軍国主義)。論理的順序として、天皇ファシズム文革ファシズム先行する。文革ファシズムの場合は、観念が<前>で(媒介性の消去、目に見えない読む手が規定されてくる「文」の消去)、視線が<後>である(孔子像真っ二つ)。なにが<先>で、なにが<後>か論理的順序にしたがって観る見方は、アジアで成立した唯一の形而上学である朱子学において成立していたものである。生が<先>で、死後のことは<後>である。しかし鬼神論では、観念が<先>で(「理気論」の理気論的コスモロジーを前提に、魂魄は気と気であるというような分節化)、視線は<後>である(祖先祭祀)。

186 概念を展開すること。ポストモダン知の時代において書くことは並べることである。文学史や美術史、映画史を作ったのは歴史感覚をもつフランス。だがフランス思想史があるのか?そもそもフランス思想なんかあるのだろうか?現代フランス思想の存在を勝手に言っているのは日本だけである。ヨーロッパ思想史は存在する。ただしそのヨーロッパは地域的な意味で言われるヨーロッパ。こう言うならばわかる。「思想史ー古い国のフランスとイギリスは普遍思想をどう語ったか、新しい国のドイツとイタリアは普遍思想をどう語ったか、 20世紀以降の国々は普遍思想をどう語ったか」。さて日本思想は存在したのだろうか?わたしは思想史アマチュアだから、間違ったことを言う権利がある。自由に喋らせてくれれば、思想は日本の古代と中世に存在しなかった。学問が天皇•貴族•寺社に独占されていた古代と中世は内部での議論があっただけだ。思想は学者の議論という意味での言説空間であるとすれば、思想は武士政権が町人と農民に学問(朱子学)を解放した江戸の近世に成立したとわたしは考えてみたい。そうして江戸思想を中心にした日本思想は、朱子学の普遍思想をもつアジア思想史のなかで存在する。ここでもアジアは地域的意味である。「アジア思想史ー中国は朱子学をどう語ったか、朝鮮は朱子学をどう語ったか、日本は朱子学をどう語ったか、台湾は朱子学をどう語った」と言ってくれたらわかる。ここで概念を展開することー鬼神論の解釈的言説の展開。日本固有の日本思想は存在しないのは、ヨーロッパ固有の思想が無いのと同じだ。「普遍的思想ーヨーロッパとアジアにおける展開」は存在する。これが、普遍的なものを多元主義の方向性を以って観る見方である。書くことは並べることである。

187 世界とは顕現ではなく存在である。普遍言語を方法化したジョイスは普通の人々の不完全な言語の存在を見いだした。彼の文学はドゥンス・スコトゥスを体現しているとエーコは言う
189 ‪世界は分割に関心をもっている。「分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい」(フーコ)
190 思考は、みずからと異なるもののまえでいかにして身をかわすことができるのか?一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか?」
191 世界は一つの時期を切りとろうと望むのか?「大正」という切り取りは、大正デモクラシー大逆事件満洲事変の間にあった統制であることを隠蔽してしまう。「二つの時点において対称的な切断を行い、両者のあいだに一個の連続的で統一ある体系を出現させる権利が、そもそもわれわれにあるのだろうか?(フーコ)
192 書くことは並べること。世界とは‪ < p, o , e , m, t , h , e , a , t , r , e > ‪
193 世界はローマの選ぶ民主主義。ギリシャ的<語る民主主義>が伴わないとなにが起きてくるのだろう?「大多数の支持する「安パイ」に入れておこう」、「自民党、他より良さそう」。河で溺れた人は岸側の暗い方へ行けば助かるのに、明るい真ん中の方へ行ってしまうことで助かる確率が非常に低くなるのだけれど
194 世界は映画と溶け合う。映画は現実を模倣し、現実は世界を模倣した。21世紀に入って20世紀の主要な映画作品の名が忘れられていくと、リア王ゴダールゴダール教の成立とともに、映画を表す名となった。この名は寧ろ、映画の外にいた芸術家達の関心を捉える。そもそも映画が定位していたのは映画の外においてであった
195 世界は救済しなければいけない。世界は純粋な理性が限界を超えて行く。宗教的になってくるこの国は、ケインズ主義への批判が<何でもかんでもカネが解決する>教に収縮しちゃったように、絶対平和主義への批判が<何でもかんでも武力が解決する> 教に膨張していないか?批判精神の卑近を拠り所にしていない
196 批判的卑近とはなにか?高すぎる要請でも、解釈し尽くす排除でもなく、また遠すぎる迂回ではないような、包摂できない穴だらけのものに表象される名のなきもの。思想史と私は呼ぶ
197 批判的卑近は反時代的精神である。『童子問』の要請、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』のラディカルモダニズムの排除、『朱子語類』の迂回。どこにも属するが部分にならない
198 批判的卑近は反時代的精神である。高すぎたり卑小すぎるのでもなく、また遠すぎるのではない。天を仰ぎ見るわれわれは土地のどこにも立つが、決して地より低い深さにはならない
199 ラス・メニーナス』を見よ。鏡やチェスボードの平たい表面の横滑りに驚く。文学は表面の芸術。現れるのは王でも人間でもなく、横向きになったデウス・エクス・マキナである
200  200は欠番である。