書くこと 1ー100

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1 書くことは、ネットの写真の整理のように、並べることである。世界とは、吠えているもの、漢字とギリシャ文字、硬張らしたまま弛めるもの、動くもの、顔の輪郭、物で書かれたもの


2 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、さえずるもの、何を言っても通じないもの、筏で亡命する「徳」字、弛んだまま硬張らしたもの、お尻の輪郭、投射


3 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、つぶやくもの、終わらないもの、逃れるS字、nymphē、氷河の下にある惻隠の心、正しいはじまりをもたないもの


4 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、揺れるもの、貧しいもの、往来するもの、こちらの向こう側にあるもの、表から見える裏、投射されるもの


書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、貧しいもの、蓋がしまらないもの、紐を結べない靴、実現不可能な計画、縮小のなかに比類なき大きさをもつもの


世界とは、卑近なもの。隣どうしのもの。招待されないもの。頭を埋める「孝」の字。鰐のA。暗闇に浸るもの。言説無き沈黙が沈めるもの


書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、名づけられないもの、囲いきれない無言の可視的標識、夜に浸っていくものが再び光のなかにおかれるときに流れゆくもの


世界とは、草原に放たれた火、単純に増加するもの、水平的平等における下に広がる円錐、見あげる天空とコアラを抱く「敬」字、臍で呼吸するもの、帰ることがないもの、顔の下の仮面

世界とは、循環するもの、不可能なもの、石版、スクリーン、白紙の本、垂直的平等における上に広がる円錐、天地を隔つ巨大な柱を自ら支える「聖」の字、未来を思い出す部屋

10 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、動かないもの、善意で世の為にたたかった敗者を嘲笑うもの、闇と光の神話、死者から奪った声なき声を返さない生者への復讐

11 世界とは、支えることが不可能なもの、巻く主人と巻かれたら巻き返す奴隷、右翼と左翼、支えることができると考えなければやっていけなくなったもの、囁き声がとまらない

12 世界とは、異端なもの、贋物、鋭く職業的に刺したもの、i の空間にアナを開けること、表面上の時間の観念、近づくものとそれを遠ざけるもの、白紙も署名ではないだろうか、無の

13 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、太陽の周りを回って踊るもの、出国前夜の再び帰らないための葬式、宇宙の栓が抜けて沈む「誠」字、直線から逸れるもの

14 世界とは、住処のないもの、宇宙にすむもの、仮部屋の身分なき儒者における宇宙よりも微妙なもの、内部世界の言葉の方向へゆっくりと歩く形式、投射されるものが投射するものである

15 世界とは、世界から逸れるもの、世界の外にすむもの、世界とわれわれ自身に無関心なもの、有音と無音とのペアを失ったもの、自己の美しか関心がないもの、世界が暗闇包まれた天岩戸

16 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、壁のなかでその内部に沿ってあるくもの、死を観念化できるもの、イメージの傍らに無があるもの

17 世界とは、只上にあるもの、分裂していくもの、自らの過去の姿を発明し続けるのをやめたら化石となってしまうもの、アテネから結婚の申し出を受けたもの、無垢で野蛮なもの

18 世界とは、愚鈍なもの、原初の泉にむかって這うもの、天の鬼神と話すために穴だらけの傘をもつもの、天下を問う「形」の字、俯瞰するもの、旋回する神の視点

19 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、トンネルを抜けたら出口がなかった、不安定で均衡なもの、制作の秋。他方で不均衡なものの安定は非政治的である

20 世界とは、半分のもの、言葉を誰から誰かへの贈り物にしてしまうことのない半分の声、半分の言葉だけが絶対無限の貨幣だ。大いなる他者の現前を翻訳に縮小することのない半分の言葉よ

21 世界とは、幸徳と大杉の非暴力市民としてのあり方。しかし国家は百年後に市民が立ち上げれないように、先手を打って市民を殺戮した。国に逆らうと怖いぞという恐怖を植えつけた

22 書くことはネットの写真の整理のように並べること。表象の思考とは、並べることにおける<と>のラディカルな外部化である。ものの秩序の裏側にはもうひとつの秩序がある。そこで言語的存在の人間は存在の意味を考えることができる。博物学は目に見えるものにとらわれたので、表象の思考がどうしても可視的なものに規定されていた。映画史も、映像が大きな力をもった映画たちを対象としていたから、博物学とおなじような問題をもつことになった。存在の意味を探求する思考の歴史としての映画史がはじまるのは映画が消滅してからである(本当に消滅したかどうかではなく、理念的に消滅したとかんがえてみるのである)。わたしはこれを、世界の向こう側にある、<絶対無限の貨幣>と呼ぼうとおもう

23 世界とは、民信無くば立たず。政財官マが推進した安全神話と復興神話の後は、新しい資本主義の神話か?「お上にすがる」ことは倫理的に不可能だが、何を言っても通じない乱世である

24 書くことは並べること。世界とは、アジアである。台湾人のために台湾を考えるシナリオと、中国を考えるシナリオが必要だ。日本のために台湾と中国を手段とするシナリオは要らない

25 世界とは、日本語でも国語でもないもの。ハンナ・アーレントナチスから逃れて米国に亡命したとき、ドイツに生まれたからドイツ語を話すが、ドイツ人だと考えたことがないと言った

26 世界とは、風の音か、先祖の囁きか?風の音と同時に先祖の囁きをきいているとしたら、そこは天にちがいない。天でなければ、夜が沈めて光の中に浸る、死装束としての裸体の上に佇む

27 書くことは並べること。世界とは、遠いもの同士を近づけるもの。天の道と人の道。誠が媒介する。だけど死者の間にヒエラルキーを作る政治家が語る「誠」字は倫理的姿勢の反対である

28 世界とは、顔淵。この学の後継者を失った自己の力が及ばぬ天を見上げた孔子は自己の力が及ぶもの、思想の根拠地を考えたか。世捨人にならず公を批判する国内亡命の場所を探した

29 世界とは、情報がはいっていないもの、コミュニケーションが成立しないもの。芸術作品は情報もコミュニケーションもない。抵抗は情報のためでもコミュニケーションのためでもない

30 書くことは並べること。世界とは、卑きものと高きもの、実なるものと虚なるもの、「学問は卑近を厭うこと無し」、襞とペン、現在進行中のもの、上昇と下降、斜線からくるもの

31 世界とは、先ず言っておかなければいけないことは、本質的に、読めないもの。一つの原理でないもの、言語的存在である人間にとって、自己の力が及ぶものは言葉の他にあるのか?

32 世界とは、鍵がかかっていてわたしのほかにだれもはいってこれない墓跡。いかに脱出するか?人間が佇むのは、「巨石の如き多言語墓跡」の下に広がる海においてである。鯨。天に通じる

33 書くことは並べること。世界とは文学。リアリズムが描いた中流の没落する運命はどうでもいい。神話は不毛なナショナリズムの怖さがある。最後の文学は神話的リアリズム。絶対平等からみえる彼方の絶対無限を書いた

34 世界とは戻ってくるもの。フランスのヌーヴェルバーグは若者達が次々と盗んだ車で道行きの旅をするが、アイルランドのヌーヴェルバーグはアイルランドを一周して出発地に戻ってくるというもの

35 世界とは差異化。朱子の思想は宗教改革であった(講座「第二江戸思想史』)。江戸思想は、古代儒教を差異化した、朱子学における万物が性に帰る同一性の中の理気論的差異化を解体する差異化である


36 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、空集合、沈黙、無関心。空集合。演劇のなかの天の嘆き。「忠」字のなかの心の不在。封筒を開いたとき手紙はなかった

37 世界とは、砕け散るもの。顔、鏡のなかに映る自分の顔、自分の内面に思い描いている自分の顔と一致しないことに気がつく男は鄙びた裏道の唄声をきく、鏡と窓、鏡の裏側に立つもの

38 世界とは、無矛盾なもの。哲学者は絶えず矛盾を以って世界に問題提起してきた。解決しないことが議論の規則。普遍か普遍でないか?深さに絡みとられず、新しい普遍を制作すること


39 書くことは並べること。世界とは隠されたもの。『侍女の間』。描くことは隠されたものを眼前に並べること。『古事記』もその裏側に起源を隠すと言われる他者も明白に隠されている

40 世界とはギリシャ的なもの。17世紀の仁斎論語(子安先生)は、ヨーロッパが新しい普遍主義を構成するために古代ギリシャへ帰るように、アジアのギリシャ精神と呼ぶべき孔子へ帰る

41 世界とは鬼神論をめぐる言説(子安先生)。朱子理気論的コスモスロジー宗教改革。徂徠の制作論的有鬼論、篤胤の民情論的有鬼論。敗戦を消した柳田の先祖の話は朱子国民国家化である


42 書くことは並べること。世界とは、すべてのものとそれを超えるもの。世界はすべてのもの、神話はそれを超えるもの。世界神話を包むことができないのはそれは自ら投射するからである

43 世界とは、包むもの。世界神話は『古事記』を包むときは己に包むものを積極的にもっていなければならない。包むものは、『古事記』を超えるものだから、民族的なものではありえない

44 世界とは、「何からなにまでまっ暗闇よ」。本当にそうならば光も闇も存在しない。17世紀のヨーロッパの危機だ。なぜギリシャにたちかえったのか?バロック絵画とオペラが誕生した

45 多言語文学は翻訳が先行する。世界中の言葉の翻訳を通じて意味されるものが事後的に明らかになるならばどの言語も借り物。迷宮に言語と思考を与えてくれた大いなる他者の存在は無い

46 FWの翻訳が先行する普遍言語としてのプロジェクトは破綻しているが、世界中の河の名を書いた世界神話として成り立つ。各々の河が神話に対応するならば、世界神話は海である

47 世界とは、アジアにおける自民党的政治の敗北から始まる。『古事記』を国語•日本語と<一国>民主主義から逃すこと、これが安倍と日本会議との思想闘争に打ち勝つことではないか


48 書くことは並べること。世界とは、隠者たちと出会った孔子にとって、「世界ー内ー国内的亡命」(『仁斎論語』子安先生)。隠者のように自然へ行かない。公にたいする批判をやめない

49 世界とは幾何学の精神。ヨーロッパの危機にあって、他者の岬を幾何学の精神が支える。ギリシャの亡霊。アジアは行ったり来たりする牢獄のなかで湾曲した壁に別の他者の岬を投射した

50 世界とは、家族的なもの。夫婦同姓でなければ墓を守れないならば、墓は要らぬ、産業廃棄物ゴミの日に骨を出せばいい。「義」字よ、犬の腹にもどれ、「孝悌」の字ならば台湾の駅にある


51 書くことは並べること。世界とは、言語によって分節化されるものである。しかし文はものを指示してこそ、思考は確実なものだろう。。だけれど、同時に、思考は指示されるものに限定されることはない。そうでなければ、主述の関係で構成される文の普遍性が失われるから。普遍を豊かにするのは転移である。こうして命題的文は思考を可能にする。神話も文に定位するから、普遍性が失われない。来月から、宣長の『古事記伝』を読む。子安先生が語る宣長と篤胤との関係を考えてみると、これは文藝復興運動のイェイツとジョイスとの関係についても言えるのか。『古事記』の宣長アイルランド神話のイェイツは神話の根底に民族を指示したが、篤胤とジョイスは、それを超えるものである、世界神話は民族的ではないとかんがえたのではなかったか。世界が暗闇に包まれたとき、それを思考できるのは民族的なものではないとおもう。そもそも、見えないものに名を与えることによって国家を制作する超越者はこれを民族のために行うのではない。神話素?である、闇を考えるために、わたしは『フィネガンズウェイク』の’浅瀬の二人の洗濯女’をじっくり読み直す必要がある!


52 書くことは並べること。世界とは、国内的亡命的なものである。亡命して世界の外に出てしまうのではなく(隠者と出会ったも孔子は自然へ出てしまうことはなかった)、漢字文化圏のアジアと江戸思想の外部をもちつつ、思考が可能か問う国内的亡命としての<内>において、「世界-内-存在」は脱構築される。「内」は投射の形式である。自ら投射する言語的存在を覆い尽くすことができない。比類なき大きさをもつものは天しかない。国内的亡命的なものは天下の公をただすことをやめない。市民の時代において帝国の天下主義は成り立たないことを言う

53 世界は、市民の時代である。市民の時代において、世界史の構造も、帝国の天下主義も、成り立たないことを言うことができるのは、<世界ー内ー国内的亡命>である

54 世界とは、おお、何もかも話して。アナ•リヴィアのことを、何もかも。浅瀬の洗濯女達は、ホメロスオデュッセイア』冒頭から来た?空である、O字から、tell me (話して)、tell us (話して)と。夜。天岩戸のときのような世界を覆う原初的な暗闇。二人の輪郭がなくなって木と岩に成る

おお

なにもかも話して

アナ•リヴィアのことを。なにもかも。


現代の世界神話である、ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の’浅瀬の洗濯女たち‘は、ホメロスオデュッセイア』の冒頭のようにはじまる。Oの字は空ではないのか。Oの字から、tell me (話して)、tell us (話して)と木霊する

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55 書くことは並べること。「教理問答」において書かれた言葉の終止符、ここから、『フィネガンズ・ウェイク』か、人間的声の復活か、にわかれる。新たに多元主義デリダへ行くか、普遍主義になったデリダ主義を批判するポストコロニアルへ行くか

56 世界とは、おお、何もかも話して。アナ•リヴィアのことを、何もかも。浅瀬の洗濯女達は、ホメロスオデュッセイア』冒頭から来た?おお、空である、O字から、tell me (話して)、tell us (話して)と。夜。天岩戸のときのような世界を覆う原初的な暗闇。二人の輪郭がなくなって木と岩に成る

57 世界は、バッシャーン!「バベルの塔のべちゃべちゃしゃべり」(ジョイス)。アジアにおける言語支配者は、四書はアジアのバベルの災厄であることに気がつかないで、帝国の中心に漢字があるという根源的錯認、母国語のべちゃべちゃしゃべり


58 書くことは並べること。帝国が近代的測量を始めたのは増税を行うためだった。世界とは、地図である前に本であった。本は、地名と場所の情報をうたで伝えた民の記憶を記している

59 世界は速度によって消滅する。嘗て船で二か月要したパリに飛行機で9時間で行ったとき、パリは消滅した。現在は時間の距離があるだけだ。思想史遠足的な距離は未だ支配されていない

60 速度は世界を消滅させてしまった、インターネットが覆う時代は同時性を考える。枢軸時代。またヨーロッパはヨーロッパの外へ出た危機の17世紀に、アジアでも外へ出る運動が起きた

61 書くことは並べること。世界神話は民族的なものに非ず。Huges Caput Earlyfouler (「巨大頭の早起き汚し屋」)にH・C •Eが自らを投射しているーHere Comes Everybody

62 書くことは並べることである。井筒はカオスがコスモスに先行するという。世界神話はコスモスとアンチコスモスが対立関係であるとは語っていない。デカルトにおいても思考不可能なものが思考可能なものと共にある

63 世界とは、思考不可能なもの。宣長は「天地」をアネツチと読むことによって思考不可能なものが思考可能なものにおいて不可避的になった。中国文明からの自立を言う言説である

64 世界とは考えたことがなかったもの。中国は自ら帝国として投射することによって思考不可能なものー独自の社会主義、方法としての中国ーが、思考可能なものーマルクス主義的民族国家ーにおいて不可避的になった。しかし言語支配者は帝国を支えてきた書記言語の漢字を失いつつある現実に鑑みると、自らを帝国として主張することは根源的錯認ではないだろうか。しかしそうしてコミュニズムは終わるために全く考えたことがなかった理論に規定される。17世紀のイギリスの王権がそれがまったく知らなかったホッブスの社会契約論に規定されはじめたように。天安門広場事件が差異化の決定的な契機だった。


N'était-ce pas aussi à partir de l'erreur, de l'illusion, du rêve et de la folie, de toutes les expériences de la pensée non fondée que Descartes découvrait l'impossibilité qu'elles n'en soient pas pensée,ーsi bien que la pensée du mal pensé, du non vrai, du chimérique, du purement imaginaire apparaissait comme lieu de possibilité de toutes ces expériences et première évidence irrécusable?‬

‪(Foucault, L'homme et ses doubles)‬


65 キミの獲得した全思想史を総括せよ。理念と正義は先行したものの権利の語りにある。思想史は先行した思想を考え、映画史も先行した映画をみる。思想史と映画史は似たもの同士である


66 書くことは並べること。物で書かれたもの。Don Dombdomb and his wee folly ! (FW) 「愚かな丘男と何でもハイの川女!」(宮田恭子氏訳)。ジョイスにおける思考のイメージを遍歴する


67「愚かな丘男と何でもハイの川女!」(宮田氏訳)は、デリダ的な不可避の他者に出会うHelloの迂回の戦略であるが、ポストコロニアル的には男性原理同化主義に対する<いいえ>を構成する


68 自民党的の新自由主義はカネに最大限の自由を与えるだけの<なんでもかんでもカネがものをいう>。自民党新保守主義はみんな<なんでもかんでもハイという女でなければいけない>

69 キミの獲得した全思想史を総括せよ。理念と正義は先行したものの権利の語りにある。思想史は先行した思想を考え、映画史も先行した映画をみる。思想史と映画史は似たもの同士である。”Pares … paribus facillime congregantur. “ 似たものは似たもののところに集まりやすい。ーキケロ『老年について』Eiji Kunikata氏訳) 

70 書くことは並べること。世界とは、外部からやって来るが内部において生じるもの。「火ここになき灰」、膣の火の鳥、黄泉の国のイザナミ、巨大墓碑は物語のような死の分裂化である

71 世界とは、自然へ出ない世界ー内ー国内亡命であると語られた後に、救い無き世界ー内ー穢なき黄泉の国の運命がはじめて語られた。外部から来るが内部に在るものは、死の分裂化である

72 世界とは言語的なものである。言語を逃がすために、集中した権力を解体すること、これを主張する者のどんな共同体も均く言語にアクセスできる権利を否定してはならない


73 書くことは並べること。世界は見上げるものと見下げるものに分裂する。見上げるものは自己は常にコピーに過ぎないと悩む。見下げるものは自己はいつもオリジナルに過ぎないと悩む

74 世界は東と西とに分裂している。東はどうして自己は常に統一がないような偽物なのだろうかと悩む。西はなぜ自己はいつも統一しかないホンモノでしかないのかと悩んでいる

75 世界は見上げるものと見下げるもののほかに、「われわれ自身」である。救済しなければならない政治は「われわれはわれわれである」を侵略する恐ろしい危機を訴える。未来ー戦争と開発と同化主義ーに対する抵抗をわれわれに「敵」だと非難する「われわれ自身」

76 書くことは並べること。『フィネガンズ・ウエイク』のCollideorscapeは、万華鏡kalidoscope、 衝突するcollide、逃走 escape、を縮約しているジョイスの造語。「衝突遁走万華鏡」(宮田先生訳)

77 世界は衝突遁走万華鏡Collideorscape(FW)。主体を他のものー言語的存在ーにするのは、漢字文化を通じて、国家の向こう側にみえる、ロゴスとアンチ•ロゴスの衝突

78 世界とは子供たち、無垢で残酷なものである。原初的兄弟殺しの党派的なもの。党派的でないものも党派的である。カインとアベルの原初的兄弟殺しと革命とを衝突させた近代


79 書くことは並べること。世界がもしロゴス的論理的順番によるときは、先行しているものが他のものを排除するとする根拠はない。此方も彼方も保たれるので、均く並べることができる

80 世界は、港のない国の海からの旅立ち。ノアは島影を認め、屋根の下からガーガー鳥を放った。インターネットは既に何千年前にあった。ウイルスもコミュニケーションを待っていた

81 世界は、沈黙というものはない。何かが常に音をたてながらなにかが起きている。闇の声たち。声の力を失っても、小鳥たち。河の指輪にする草の輪もないっていうのに


82 書くことは並べること。アジアの啓蒙主義とヨーロッパの啓蒙主義。学と道徳自立性は江戸の儒者においてはともにあるべきものだった。武士政権を直に批判するのは危険な時代だったので道徳批判を通じて批判した。学と政治的自立性はヨーロッパのブルジョワジーのものである。

83 世界は写像的なもの。精神的点のモナド。点は線に従属しない対応の写像世界?哲理的にはモナドモナドが一理か?道徳世界においては、人に実をもって対する忠恕こそが中心となる

84 世界とは交換である。『フィネガンズ・ウェイク』では王マーク(「クォーク三唱」)は天を旋回し、H・C ・E(Here Comes Everybody)は大地を歩む。『古事記』において記されたような天上界と地上界の間で統治権の交換が起きたのかは読めないでいる


85 書くことは並べること。世界とは、行列の先頭にある理念的なもの。国家、共同体、卑近なもの、私、と並ぶ。これとは逆に、私を先頭として世界が最後の行列もある。しかし外から並ぶことが不可能なのは輪である。輪は「われわれ自身」だから

86 世界とは並ぶもの。行列の理念は排除のない民主的なもの。しかし並ぶものにとってあまりに遠く外にあるときは、「われわれ自身」の輪がもとめられる。行列はこの排除を招く根源的錯認

87 世界とは、サイード は言う。テキストを読む我々には世界性(worldliness)があり、またその世界の中で生きている存在(世界内存在)でもある、と


89 書くことは並べること。文学に現れた世界では、なぜ投射された理性的思考よりも、民族的実体が支持される危険があるのか? 原初的なものを読む近代主義の理念による脱神話化は、理念が遠く外にあるために、民族的実体を内側に呼び出してしまうということか

90 世界とは、「子の曰わく、晏平仲善く人と交わる。久しくしてこれを敬す」(「論語』公治長第五)とあるように日常の行い。しかし日常の行いを理念化すると難しくなる。遠く外にある

91 世界は聞こえない。神話の根底に民族があるといわれるが、だけれど民族を成立させる訓(よ)みによっては神話を訓(よ)むことがことが不可能。訓は民族しか聞こえないのである


92 書くことは並べること。記号に現れた世界では、世界の危機は世界の意味がその世界の外から来るあり方にある。問題提起が可能な入り口はなく端も隣接するものもない記号の危機である

93 芸術に現れた世界では、世界の危機は世界の意味がその世界の外から来るあり方にある。芸術において芸術の外にあるものを信じることは芸術の危機ではないか?そう考える者にとっては、たとえば光源は論理的に正当化されなければいけない。蝋燭の影はあり得ない。そうしてこそ自然は空間における理念の発展である。しかし精神Geistはものと共に世界に彷徨う。歴史は時間における精神の発展である。精神にとって、遠近法は原罪であるから償わなければならないということが告げられる。20世紀において償うものは映画という名が与えられた

94 書くことは並べること。映画に現れた世界では、問題提起が可能な入り口を為すものをさがす。裏から見る。端をみる。隣接するものを考える。書くために並べる。編集に対して、遠近法は思考の柔軟性を奪うイデオロギーである。並べる為に書く


95 書くことは並べること。帝国の植民都市ダブリンを舞台にした、挿話テレマコスで始まるジョイスユリシーズ』はひび割れた手持ち鏡に映る世界の姿を書いた神話的リアリズム

96 世界は起源。ホメロスオデュッセイア』はヨーロッパというのは何処からきたのかを神話を利用して伝える。神々は『古事記』の記述と違って他所からいきなりがやってきたのではない

97 世界とは、東雪谷二丁目。空中庭園、妖精の舞踏、犬のうるさい鳴き声、万世の木鐸薔薇の名前を超える鴨たち、彼方側にある明鏡止水の白鳥ボート、なんのこっちゃ?


98 書くことは並べること。「仁斎論語」においては天は仰ぎ見る天となったが、聖人とはいえ、実直者でわれわれに身近な孔子、学ぶことが好きな孔子のイメージをもつ。生と死。鬼神へつらう者は知者ではないが、生が優先されるからといって死が排除されるわけではない

99 世界は知識革命。「四書」はアジアにおけるバべルの災厄だった。それから800年後にこのことをはじめて言うことができた。近代日本は正しいはじまりをもたないと

100 近代はヨーロッパから起きたし、ヨーロッパの外のアジアからでも起きた。だけれど政治はただフランス革命から。世界よ、間違っても、自由に喋らせてくれ



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書くこと 100−200


書くことは並べること。ガリレオアインシュタインも方程式に裏側はない。思想の言葉は裏側ー思想家ーをどうしても考える。だが常に思想家がそこにいるのか?思想史ならば存在する

世界は痕跡である。起源を問う近代は、何処からきたかに答えるために遠くへ行く。近代とは別の考え方は、眼の前に見ているものこそが隠されているものだと考える。痕跡が答えである

世界とは痕跡の他にない。ラス・メニーナスは、眼の前に見ている世界こそが隠されている世界である。『古事記』も、眼の前に見ている言語が隠されている言語。漢字しか書いていない。世界とは痕跡。『古事記』には漢字しか書いていないとはいえ、再び漢字に起源を見いだすような悪循環を避けるためには、思考を可能にしてくれた「不可避の他者」の存在が要請される

理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと孔子はいう。この孔子の言葉をどう理解するか。仁斎の詳しく書いた注釈があるが、簡単ではない。これについての『仁斎論語』の評釈が助けてくれる。これを読んだ後に、情を言語化するというか、「情」はどのように語られてきたか知的に語ることの大切さを考えた。宗教ならば、禁じられた怒りを語ることに価値がない。論語』は彗星のように流れる実に短い言葉でさりげなく、知識人にとってのタブーを破っている。また心をどうとらえるか。理を心によって置き換えることはできない。聖人の教えは仁にもとづくのであり、これは心によっては支えることができないのではないかということを考える。ここで、性は理であり(性即理)、心が支えることができないのではないかということもあらためて考えることになった。理気二元論コスモロジーが批判されている仁斎においては理念性が要請されているこの点が重要である。難しいが、仁斎は、理から切り離された「仁」との関係をもった情動を語っていたのだろうか。心の本体(性•本心)が大切なのではない。仁斎は、「仁」に向かう心の動き、慈愛の心という他者に向かう心の動きを重視する。「仁」は仁斎において愛である。人が生まれながらに持っている、四端の心ー惻隠の情、悪を憎む心、謙譲の心、物事の是非を見きわめる心ーが再構成される。ドゥルーズ哲学にとって大きな意義をもつ反ロゴスの情動について、ヒューマニズムのモダンではなくポストモダン的に、仁斎における理念性とともに考えたいとわたしはおもっている。しかし情動を再び別の体系で体系化することに意味はない。面白くもない。最初からわかっているが、情動は言遂行的に意味をもつことができると思っている


書くこと並べること。世界は「怒り」をどう語ってきたか?マルチチュードは草原に燃え広がる情動として語る。理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと言う孔子の言葉をどう理解するか

世界とは反ロゴスの情動。川を挟んで洗濯する二人は、夜、世界の中心を外部のstem(幹)と石(stone)におく。あちらへ流れこちらへ流れる水に成るために

世界とは「文明国家」。政教分離の観念はキリスト教がはいってきていた江戸時代にあった。明治は西欧から来た人々に適用する政教分離を示し、かつ、国家神道政教一致を確立した


書くことは並べること。世界とは思考の自由。数を数で数えることならば易しいが、数に正しさ(矛盾がない)を理念化すると難しくなる。エクリチュールは孤児であるほうがいいか

世界は思考の自由。理念的なものを思考の明確なイメージを衝突させよ。イメージは方法としてある。だが高く遠く外にある近代主義的理念は、対抗的に呼び出される実体に絡みとられる

10 世界は戦前に戻らない誓い。戦争する普通の国にならないことは易しいが、理念化すると難しい。絶対平和主義と、合同演習で軍隊が国の外に出ている解釈改憲が両立してしまっている


11 書くことは並べること。世界は表層的なものである。神話も映画も根底に民族はない。というか、根底なき表層的なものである。両者は民族を越えるものではないか。世界映画は世界神話におけるようなものとしてある。草の根運動のプロ化と失われた自発性を問うただけのアイルランド映画は、ナショナリズムの映画とされるのはなぜか?ナショナリズムの破綻を表現していると解されるのはどうしてか?それは少なからず映画の世界性によるとおもう


12 世界は解釈である。解釈の解釈で忙しい。憲法改正前に解釈で改正済。解釈改憲による軍国主義国家神道(公式参拝)の復活、国民がノモス的主権を譲った解釈改憲的象徴天皇。国は何も無い

13 19世紀の復古主義は考えることができなかったものを考えるために儒教経書を新しい読み方で解釈した。近代日本は国学からしか生まれてこなかった。神道儒家神道だった。エスタブリッシュメント政教一致的な「国体」を考えた。問題は明治維新の王政復古化。現在からみると、長州が京都から連れ出した天皇にノモス的主権者が奪われてしまった歴史だった。今日ギロチン台の首みたいなただの札の肖像になってしまったが、明治が確立しておらずまだ可能性があった時代に、societyを人間交際と訳し、「人民people」を考えたのは、福沢諭吉。それはみとめなければいけないとおもう。子安先生の福沢諭吉論が中国語に翻訳されているらしいが、福沢も新しい読み方が必要である。

14 書くことは並べること。世界とは運河である。イギリスも自由があるが、おなじくらい規制もある。イギリスから規制を取り除くとオランダが出来上がるというのがわたしのオランダのイメージ。スペインから独立した時代にユダヤ人を受け入れていったのは、気にしなかったといわれる(清潔にしないといけなかっただけ)。気にしないことは易しいことではないかとおもう。アムステルダムの運河をみると、考えることは、だれで入ってくるが、先ず他者を信じることが先行している。そういうきとを近所のユダヤセンターでイギリスの有名なリベラル知識人が喋った。なるほどとおもってこの話を聞いていた。しかし気にしないことを理念化すると難しくなるに違いない。気にしないことはどうして正しいのか、これを言語化しなければいけなくなるから、個人主義とか国民思想とかで。リベラル知識人はユダヤ系住民で占めた聴衆者から猛反対をうけていた。いっしょに、カール•ポッパーもやっつけれていた

15 どうして日本では権力集中を問題とするものがマイノリティを排除するファッショ的人物と政党しかいないのか。果たしてこれは遅れた日本近代の問題か?近代主義に立つとファシズムを問題とすることができる。近代はもっとホンモノにならなければいけないと。しかし近代主義を批判するポストモダン的言説からは近代主義ファシズム批判は成り立たない。もう近代は終わっているからだ。ポストモダン的言説は次のように問題を再構成する。権力集中の問題は言説の問題である。つまり明治維新の王政復古化の問題を隠蔽している問題だと。またマイノリティ排除の問題は、歴史的に、<韓>の排除を前提にした国家の成り立ちにかかわる問題だとみる。福沢諭吉に責任がありそうな、反アジア•反中の言説をどう考えるか。近代主義は近代化が進まないのは中国のせいだと繰り返し非難してきたが、これは近代主義の根源的錯認と言わざるを得ない。近代主義の近代国民国家を語る高く遠い理念は対抗的なナショナリズム(民族主義)を呼び出してしまうのである。

世界はもっと言語を集中させなければいけない。だけれど、ポストモダンは、主体を否定しきってしまうと、戦前の天皇ファシズムの復活はあり得ないが、安倍政治が解釈改憲の国家祭祀復活(公式参拝)と解釈改憲的象徴天皇(国民のノモス的主権の譲渡)を前提に皇室に依存しないナショナリズムを組織化するなかで、これにたいする抵抗を行うことができるのだろうか