近代の知に囚われたときでも知の巨人はいつも本当にそれほど巨人なのか?

近代の知に囚われたときでも知の巨人はいつも本当にそれほど巨人なのか?

ハーケンクロイツの旗のもとでフルトフェングラーがベートベンを指揮したことは否定できない事実です。他方でこれについては、かれは他の音楽家達とユダヤ人のアメリカへの亡命を手伝うために敢えてドイツに残ったというワルターの証言も無視できません。戦争中のときは知識人はプロパガンダの道具として利用されるほど囚われの身になることがありますが、まだ戦前的な猶予ともいえるような段階で、自分が持つ芸術の力で旗の意味を変えてしまうという言説のたたかいに出る、(日本の場合は後の時代から'転向者'と非難されるが、) 真の意味で反骨の文化人もいたはずです。国威発揚する旗の民族性の意味とは正反対の方向に、音楽の力によって戦争を拒む人間性を再び喚起するために。真相は?高校生の時に読んだ新聞コラムでは、加藤周一が旗の下のフルトフェングラーを戦争協力者だと断罪していました。やはりそうなのか?ただ、ファシズムは近代の国家からしか起きてこないにもかかわらず、宣長問題を論じた加藤が、ハイデガーと、まだ国家が成り立っていなかった時代に生きた宣長を直に比較した一文は、知の巨人と呼ばれていたこの加藤の分析力の確かさを疑わせます。近世の宣長中華思想に反発した語りは、嫌になるほどネトウヨ的口調に類似していますが(笑)、思想の依存を明らかにした上で思想の自立とはなにかを問う大変に知的構成でした。宣長のそのあまりに漢心的な思考に同時代の国学者が呆れるほどでしたが、これは、宣長儒学の徂徠から最も影響を受けていることから説明できるとおもいます。(ただし宣長は仁斎と同じ身分だったので、徂徠のようには武士の特権階級ではありませんでしたから、そういうこともあってか、常に世の統治者を非難していたと考えられます。幕府を批判することをゆるさない事実上厳しい検閲があった時代ですから、お上の幕府を批判するときはそれを支えた儒教なり中国を批判するという方法をとったかもしれませんね。東ヨーロッパの作家も検閲の目をかわすために曖昧な書き方をしました。) なににしても加藤が言うようには近世のこの思想家は、近代的な意味でロマン主義だったとして前提することは単純に間違い。徳川日本の思想史は、伊藤仁斎荻生徂徠といった注釈学のラディカリズムを中心とした儒学の内部解体から国学が誕生してくる過程をとらえますが、丸山真男が明らかにしたこの図式に依って加藤は、国学宣長実証主義と(ファシズムへの道を歩む)超ナショナリズムの二つの極に分裂していたと断言することになりました。が、このような分析は、分析者が依存していると自覚しなくなった近代国家の知のあり方における'優れた'統一'(フーコ的にいうと批判哲学=実証主義=客体の形而上学) から、'劣った'不統一のもの'を語るという自らの優越性を称えていただけではなかったでしょうか?知の巨人はマスコミの言葉でしょうけど、近代の知に囚われたときでも知の巨人はいつも本当にそれほど巨人なのでしょうか?やはり考えなければならない事柄ですね。