演劇の舞踏

「盲目の言葉と沈黙する映像」は、ゴダールとデュラス。そして「音楽に従属しない舞踏」といえば、ケージとカニングハムである。「ロラトリオ」John Cage: Roaratorio (1979) は、ケージがアイルランドの至る場所で偶然に録音した音を再構成した音楽サーカスだが、私のダブリン滞在中、ベルファーストの紛争解決の交渉が託された地で、この「ロラトリオ」に触発されたカニングハムの舞踏「オーシャン」Oceanという作品が発表された。この数年後に、東京演劇アンサンブルがベルファーストに来たとき、舞台撮影を行うためにロンドンから再びこの会場を訪れた。このときには、監視ヘリコプターが一日中飛んでいることはなくなり一見平和な街となっていたのだが、休日のとき大鷲さんが建物のドアに (恐らく最近のものであったろうか) 銃弾の跡をしっかりみつけていたことを思い出す。ベルファーストでこの劇団は坂口安吾の芝居を観に来た観客たちにユニークな舞踏を披露したが、今回上演したブレヒトの芝居でも、(ダンスに素人の私の勝手な思いだが、ポストカニングハムを喚起する、身体の表現性に依拠するピナバウシュウの象徴性を喚起するような)新しい舞踏を目撃できたのは大変勉強になった。舞台美術のシンボリックな舞台上を動く俳優の振付(菊池尚子氏)と音楽(菊池大成氏)が互いに影響を受ける形で同時にできていったというから面白い。紛争地では人々は母国の地でも外国人のように歩かなければならないが、これは「第三帝国」の中の出会えなくなった人々の状況と同じであろう。しかしそうしてバラバラに拡散した人々はいつ、集中するかである。どのように恐怖と貧困を乗り越えるのか。リズムをもって煙る大地を横切る、布を運ぶ俳優たちの運動を見ながらこのことを考えたのである。