Picasso et les maitres ー ピカソがえがいた他の巨匠の絵

ピカソがえがいた他の巨匠の絵

東京の、どこでもいいんだけど、ヨーロッパからある画家の絵をもってきたXX展に行くと、絵の少なさに呆然としてしまう。展示されている絵が少ないからではなく、その画家の同時代の画家たちの絵を見ることができないから。例えば、ヨーロッパでは、ある画家の絵というのは、本人の絵、弟子たちが描いた絵、他の画家が真似たもどきの絵、ただよく似た絵、その画家の影響下に描かれているはずなのに類似していない絵、同じ部屋におかれている理由か不明な匿名の絵などに囲まれて存在する。つぎの部屋に行くと、他の画家たちの、連続しているが、後戻りしないイメージに取り囲まれる。そのうち自分がどこの部屋から来たかを忘れる。わが眼を疑う。前の部屋に戻る。そうして、部屋と部屋に区切られてはいるが、どの絵もヴァリエーションの連続的な配置にあるといえよう。が、さらに別の部屋に行くと、説明がつかない、過去の時代の繰り返しとはいえないような絵が突然現れる。一回限りのカラバッチョの絵から、ルネッサンスとは共通性のない、まったく新しいものが生まれるようにおもわれる。ピカソが、他の画家たちの絵を、自分の内部から内部に即して配置していったようには・・・。東京の展示の場合は、どうも人々は絵を見に来ているのではなく、描かれている社会の情報を人類学者のように、あるいは画家の生い立ちを調べる精神分析者のように、重い責任で分析している。あちらの人々が絵をみているときはもっと気楽で、この絵のなかの人物は親戚のだれだれに似ているとかそいうことをみつけて安心しているのが多いようにおもうな(笑)

 

世の中に存在するイマージュで他の映像と関係をもたないような映像は一つとしてないし、同時に、存在するどの映像も他の映像と無関係である。どの絵にも特権としての起源の観念を適用する理由がない。さてこの関係・無関係の全体の傍らに、ケージが音を入れる必要がないところで偶然の沈黙に委ねたような余白があり、そうしてヴェラスケスの絵の中にタブローがあらわれることになった。たしかにわれわれが見えないこの裏側に全体が示されているはずなのだが。1970年代のポストモダンとポスト構造主義は、この「侍女たち」から、それまで語られることがなかったことを初めて語ることができた。だが現在批評の言葉は、ピカソが見落とすことがなく省略することができなかったほどの、ベラスケスが一番前景に配置した侍女たちの手とまなざしからはじめたそのラディカルさを、十分に実現しているといえるだろうか?すでにベラスケスは帝国の崩壊を暗示していたのに。下の絵は、Picasoによる、Velazquezの絵「侍女たち」の再構成

Picasoによる、Velazquezの絵「侍女たち」の再構成