東京演劇アンサンブルの「未必の故意」(安倍公房原作、尾崎太郎演出) を観劇

 

事件として起きたおぞましい経験の意味を共同体の誰もが知っていたはずだが、現在のわれわれはそれを知ることができません。ただ検事(模擬裁判)の信頼できない作文を通して探るだけです。きょう尾崎氏がなぜこの芝居にこだわったのかを考えながらじっくりとみました。
 

 

 

安倍公房の共同体の問題を根本からとらえた抽象性としりとりの遊びをいれた演出を念頭におきながら、(あくまで私個人の主観的な印象ですが)、この私の中に、異空間の舞台が喚起する、あまりに文学的過ぎるといわれるかもしれない、イメージが流れました。こういうものでした。ー 島民とはそもそも誰なのかという話がある。島民にとっては、自分たちがどこの島に属するのか全然わからない。他の惑星かもしれない。はじめから墓標のように島の名しかない。島民にとっても逃げ出す前にそもそも島は消滅してしまっているとしたら?島民の全員が亡霊のような存在かもしれない。そうして過去のシナリオ(事件の報告書、被害届、模擬裁判の質疑応答)をつくるが、しかしどんなことをしても消滅して終わってしまった空間と現在の時間との間に連続性をけっして回復できないだろう。そのとき、生の側から、つまり、外部からやってきた詩人だけが、嘗て通り過ぎた島人の足跡をまるでしりとりの如く辿ることができる。宇宙の私語の淵を彷徨う女、「クミ子」だけが、消滅した魂にひとつひとつ名を与えることができる...