映画はアートか?ー現代アートは映画をアートとみとめることに大きな躊躇があったと言わざるを得ません。なぜか?

映画はアートか?

アイルランドの西部に行くと、探求Ⅱのウィットゲンシュタインが数か月間いたという、地図にも正確に記されていないような荒涼とした場所がありました。ここに、ニューヨークから自主映画製作時代に8ミリを持ち込んでみたが、何日間も露出をどう決めていいのかまたどの対象から撮り始めていいのかわからなったという自身の経験を語ったコンセプチュアルアートの人がいました。たしかに何を指示していいのかわからないことを考えさせてくる場所でした。しかしこのこと自体、大変に貴重な経験なのだと気がつきました。そもそも、思考するアートとは、このように、何を指示したらいいのかわからないときに、まさにここから、指示することについて考えてみることになるということと深い関係がありますから。これにたいして、ジョン・フォードのような人ならば物語を作れました。ハリウッド映画というのは、フォードの場合のように、あらかじめ用意されたシナリオに沿って指示され取り囲まれた風景があります。それが、指示することについての思考を包摂していくのです。たとえば、「アメリカから、ワイルドな男が暴風の如くやってきた。人々の猜疑心と怯えた眼差し。共同体の静かな生活を壊すこの危険な異邦人の目的とは?」。と、このように流れていって止まることがないイメージの運動を体験していく観客には、思考する時間が与えられることはありません。映画の商品的形式から自立した、物語に先行する、スクリーンについての投射の抽象的形式について積極的に思考することがないのです。禁じられているわけではありませんが、運動イメージに属さない時間とかかわることが非常に難しく感じられていくのですね。こんな風にして、現代アートは映画をアートとみとめることに大きな躊躇があったと言わざるを得ません。