映画「ヴィットゲンシュタインWittgenstein」(Derek Jerman) を読む

  • イギリスはどこへ行くのか?今日のイギリスの問題は、1991年、マーストリッヒ条約の年に遡る。サッチャーリズム、もうすぐ労働党が推進することになる新自由・新保守主義グローバリズム大英帝国へのノスタルジー、EUが銀行資本のための市場になってしまうのではないかという危機感。映画「ヴィットゲンシュタインWittgenstein」が公開されたのは、こういう閉塞感のなかにおいてであったんではなかったかといまさらきがついた。だからこの映画について、Tariq Ali, Colin MacCabe, Terry Eagletonといった左翼たちが一生懸命書いている。この映画の台本の台本をかいていたTerry Eagletonは、映画ウィットゲンシュタインを、フロイト精神分析との関連で読み解いている。ウィットゲンシュタインは、フロイトみたいに、どうも答えを持っていた感じだが、それを全部明かすことなく宙づりにして、むしろ読者に、self-demystification 自分で行う脱神秘化(脱神話化)を促し、分析の参加を実現しようとしたというようなことを指摘した。ま...たそこでウィットゲンシュタインにおける社会への帰属に先行した、言語の帰属の社会的な問題も指摘されていて、かれのアイデンティティを形作る社会構成、かれの帰属する言語から、オーストリア=ハンガリー帝国ソビエトアイルランド、イギリスにおける(必ずしも左翼ばかりではない)かれの友達のネットワークといった社会がみえてくるはずだという。これを読むと、ヴィットゲンシュタインを分析した精神分析「どこから来たのか?」は、イギリスの精神分析「どこへ行くのか?」という問題関心を呼び出そうとしているのがわかる。Terry Eagletonはウィットゲンシュタインにおける芸術的モダニストの側面を強調した。監督によると、この哲学者は相当に映画をみていたことを最初に語っている。彼曰く、Ludwig believed language was a series of pictures. Later, when he had watched too many film, he abandoned this notion 「論理哲学論考」でいわれる映像(投射)は、論理的映像だけれども、所謂言語論的転回の後に、論理をともなわない映像(写像)を探求し始めたのは映画館の中においてだったかもしれない。現在、わたしの体験したところでいうと、ウィットゲンシュタインの探求を継承している哲学者たちは現代アートのテートモダンでのオープン・ユニバーシティーに集まっている。彼らが主宰するワークショップに参加すると、ワーキングクラスの人々が沢山きていることに気がつく。表象批判の現代アートについて考えることができるのだという者の話をきいた。ここで問題の核心を語ることはできないが、輪郭を示しておきたい。「私の心はだれも入ってこれない鍵のかかった席が一つしかない映画館 My mind is like a private locked one-seated cinema that no one can enter」。この文は成り立たない。なぜならこの話し手は、この文に指示されている自身のアイデンティティーに属する前に、この文を構成する言葉を使用する、(他者が入る)社会関係に属しているからである。内部に過ぎない私的言語に絡みとられて、外部の問題を決定することは不可能である。もちろんここでは「私の心」とはイギリスのナショナル・アイデンティティーのことである、とウィットゲンシュタインと共に知識人達はかんがえるだろう。そこからは開かれた意味は生まれないのだ。<私が同一化するものに私は同一化する>ようなその映画館(部屋)の観念に対して、どの部屋の部分とはなることなく多数の部屋に属する廊下の概念を主張します。<私が同一化するものに私は同一化する>ほどの統合ならば破裂が起きてしまうから、言葉たちは人々と共に、思考の部屋から部屋へ散歩できなくなるだろう。

画像に含まれている可能性があるもの:サングラス、1人以上