実現しないことを言うこと(理念)は果たして無意味か?

実現しないことを言うこと(理念)は果たして無意味か?

実現するかしないかは関係なく、仁性の理念が立つことによって初めて政道がただされる。「一夫その所を得ざるは、仁に非ず。」すなわち、'仁性とは一人でも食うことができなければ仁性ではない' (子安氏現代訳)。だから ネオリベの市場万能主義でもあるいはマルクス主義の唯物史観でも一人でも食うことができなければ仁性ではないし、したがって政治がただされることがないのである。近世の江戸思想は「子曰、如有王者、必世而後仁」をそう読んだ。近代カントの経験的知の中にこのような仁斎的な倫理性がある。「われわれが人をあつかうのに人を目的としてあつかえ。人を手段としてあつかうな」というような定言命法 (実践理性の道徳命法)が無いと、人間の行為の上の道徳性が成り立たないからだ。フーコならば、<折り目>をさして、ここに「経験的=先験的二重性」がある、「問題は経験的=先験的二重性である」と言うのであろう。