「ユリシーズ」を脱神話化していくこと

ユリシーズ」を脱神話化していくこと

ブルームが「諸君の神は僕みたいなユダヤ人だった」というと, 怒ったアイルランド独立運動の愛国者は貴様を十字架に貼り付けにしてやると爆発。ところで(愛国者がみとめるように) 神が人間らしく生かされたり殺されたりすることが起きるのはなぜか?宇宙的原理である神ならば消滅することがないはずです。神が人間らしく考えられてきたのは、それはこの神がただ人間だからです。ジョイスはそう言い切ります。キルケ挿話でかれはBloomusalemの君主として考えられています。脱神話化していくところにジョイスの凄さが。さて八十年代にジョイス「ユリシーズ」の翻訳が非常に充実しました。ホメロス的「ユリシーズ」とはわれわれがどこから来たのかそしてどこへいくのかという起源を物語る叙事詩でしたが、ジョイスがこのホメロス的「ユリシーズ」を脱神話化したとしたら、そこから、ポスト構造主義デリダは「ユリシーズ」をテキスト的に解体していく必然性がありました。そして九十年代のジョイス「ユリシーズ」のアイルランドからの読みは、'われわれ'をいうエスタブリッシュメントの国策的ポストコロニアリズム vs. (ブルーム的)市民のグローバルデモクラシーの政治的関係を呈示するものとなりました。ブルームの言葉は経験知の介入として読まれたのではないかと考えます。グローバルデモクラシーは人間が一人でも飢えてしまうとしたら民主主義性がないという理念をもたないかぎり、そこでは現実の政治がただされることがなくわれわれがやっていけなくなることは明らかなのです。