まだテクスト論にできる仕事があるのか?ー 搾取に抵抗する人々を非政治化してしまう文化論に対する批判として、また人々が語る自由を奪うナショナリズムを相対化する視点として、形式の問題を問うテクスト論の意義が重要でありつづけている

まだテクスト論にできる仕事があるのか?

オリエンタリズム」のサィードによると、オリエンタリズムは実体ではありません。オリエンタリズムは言語にすむ、ヨーロッパのオリエンタル的観念の構成物なのです。同様に、国家はどこに存在するのか?「想像の共同体」のアンダーソンがいうように、国家は実体ではない。あるのは、われわれ近代人が国家をどう読んだのかというところに国家が存在する。国家はやはり言語のなかにすむ、近代的国家観念の構成物なのです。日本国家はどこに存在するのか?かれによると、例えば、7時になってテレビのまえに座ってNHKの7時のニュースをみるところに日本国家があるのですね。もしNHKが安倍の戦争する国家の方向にたいする問いを発しなければ、外国メディア報道を利用してツイッターとかFBとかのネットが対抗的に問うしかないわけで。たとえ、(将来的展望からいって全然ないわけではないと楽観的に信じたいのですけれど) 、テレビ・新聞ほどの公的な言論性をいまだもっていないとしても。たしかに、これも、われわれ近代人が国家をどう読んだのかというところに国家が存在する問題としてあるのではないでしょうか。現在厄介なことに、国民文学・民族文学のラベルをはったような「古事記」が流行とききますが、原初的テクストは読めないことを知らない近代人・現代人が、(どう翻訳を決定したかを説明した注釈なしの) 現代語訳で捏造された(古代) 国家をどう読んだのかというところに(現代)国家が存在するのです。そういう想像上の国家は、歴史修正主義者安倍と日本会議にとってまことに都合がいいナショナリズムを養う危険はないのか?この場合も、相対化する視点として、言語批判とテクスト批判がなす役割の意義が大きいでしょう。二十一世紀にはいって、抵抗する主体の問題、搾取される国家、搾取される人々という問題が実体的に論じられるようになりました。搾取に抵抗する人々を非政治化してしまう文化論に対する批判として、また人々が語る自由を奪うナショナリズムを相対化する視点として、形式の問題を問うテクスト論の意義が重要でありつづけていると考えます。また言論界に席巻しているポストモダンのモダニズムとか共産主義アジア主義とかに絡みとられないように。