概念を展開する(つづき) ― 竹内好・溝口雄三から、山口昌男を媒介にして、柄谷行人に至る線についての試論的な察考

 今回は、竹内好溝口雄三から、山口昌男を媒介にして、柄谷行人に至る線についての試論的な察考である。ここでは、思考のイメージを構成する基底として、「空間性」「時間性」「単一性」という三つの基底を想定する。さて「空間性」は分割の概念にかかわる。「方法としてのアジア」の竹内において出発点として前提されていたのが、西洋とアジアとの間の空間的分割の観念性であった。(ヨーロッパと、近代化が持ち込まれたアジアが共に捕獲された近代化の限界がもたらす)従属性からの自立(他者としての真の普遍主義)が説かれるのはまず、ほかならない、この前提からである。 つぎに、「時間性」は多次元的時間発展(関数)の概念にかかわる。「方法としての中国」の溝口は最初から西洋とアジアの差異を時間的にとらえた。多宇宙論のモデルのように、西洋の近代と(西欧に還元されない)アジアの近代はそれぞれ対等の独自性をもって世界史の異なる段階で展開されるという。「アジア」と竹内が可能性として方法的に語った他者については、溝口の場合には、それは、実体化された他者でなければならなかった...。そこで他者は自らの観念性('世界史')の中から内部に沿って展開しているように語られ始めた。最後に、「単一性」は、多を一に包摂していく概念に関係している。山口の天皇制構造論が含むのが、この種の包摂の観念性である。山口の場合、外部の多様性は内部の構造を安定化するためにしかみとめられない。他者の活性化をもたらすという多様性は結局、システムの目的である単一性の<一>に還元化されてしまうという問題はいっておかなければならないだろう。(包摂性の観念性は「天皇」論を語り始めた網野にもみてとれよう。) さて「世界史の構造」で柄谷行人が行ったことは、ヘーゲルの「世界史」モデルの根底にある西欧中心の視点を、(専ら'停滞'という語で修飾されていた)アジア中心の視点に意識的に転回させただけでなく、「空間性」「時間性」「単一性」の諸基底から構成される思考のイメージに依存しながらも、その思考イメージが言わなかったことを新しく言うことである。つまり、子安宣邦「帝国か、民主か」が分析しているように、柄谷は世界史の構造としての「帝国の構造」を書いたのだ。世界資本主義の分割である「帝国」(アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国)が、(後期近代である)グローバル資本主義の巨人たちが、社会主義の崩壊のあとの世界史の舞台を闊歩する必然性があるというとき、またグローバル資本主義に抵抗する市民(多様性の要求)にむかってお前たちは迷惑だ、帝国の天命(統一的一の正当性)を知れというとき、これは過去に繰り返されたような、現在流行している救済神学の類かと考えさせられてしまう。しかしこうした(竹内の再語りの)溝口・山口・柄谷の線だけが思考のイメージではない。このマクロ政治学(「大きな人間」の言説)の線に巻き込まれながらもこれを絶えず巻き返していくような、ミクロ政治学(「小さな人間」の言説)もまた重要である。すなわち講座「大正を読む」が発見している、幸徳秋水大杉栄小田実を結ぶ直線もまた存在する。付言しておくと、この場合竹内好は寧ろこの後者の線に位置づけるのが適切な抵抗の思想家であろう。