こういう話は映画館でよく会ったアイリッシュの宗教画家からききました。顔というのは、画家にとっては、そこに信者が自らの個人的物語を投射しかねない禁じられた偶像です。だから、(過去に存在したが現在は)喪失してしまった全体的なものをもし復活させたいならば、顔を隠蔽しなければなりませんということなのでしょう。しかしここから私の問いがじはじまりました。ほかならない、この隠蔽こそが、全体的なものを不可能にするほどの違和感を無言に指示することになる痕跡になるではないだろうかと。意味ある統一性を回復するときにそこにどうしてもそれとは矛盾した痕跡が必然のごとく残るのは、果たして一体なぜなのでしょうか?アドルノAdornoであれ本居宣長であれ、この問いを問うていたようにおもわれます。そして書く行為もおなじだとおもいます。