柄谷行人「哲学の起源」(岩波書店) を読む

柄谷行人が「古代イオニアのイソノミア(無支配)」と呼ぶものは、「語る小さな人間たちの大きな人間をただす力」(小田実)と比べられるかもしれません。本の紹介の言葉をひくと、「アテネのデモクラシーは、自由ゆえに平等であった古代イオニアのイソノミア(無支配)の成功しなかった再建の企てであった。滅びゆくイソノミアを記憶し保持するものとしてイオニアの自然哲学を読み直し、アテネ中心主義的に形成されたデモクラシーの神話を解体する」。だが結局、「「世界史の構造」を経てはじめてなった政治的想像力」と称えることは受け入れ難いです。それは「世界史の構造」の繰り返しだったからーそこではカントが発見した人間の視点が再び消去されています。「イオニアの」という修飾の語を、マルクスヘーゲルの語彙「労働」「精神」に加えても 、19世紀が語った古代ギリシャ哲学史に新しいことが言われることはないでしょう。▼柄谷が「社会改革」のデモクラシーについて語るとき、「大きな人間」の側から民主主義に限定していくのは何故か?「社会改革」は現実に「経済的不平等」がある以上、「デモクラシー(多数者支配)という形」をとることになる。この試みは成功を収めるが、「この過程で僭主があらわれる」。「民衆の自由に任せれば僭主政になってしまう」。ここで柄谷はアテネ帝国の民主主義を語っているのに、帝国か民主かという21世紀の問題を語っていると思えるのです。同様の19世紀マルクスヘーゲルの視野から、21世紀の東アジアの民主主義を語っているからですが。「帝国の構造」でも「哲学の起源」でも柄谷が決して理解しようとしないのは、デモクラシーに、「大きな人間」に委ねる民主主義しか道が他にないのだとする神話への反抗が含まれるということです。▼交換様式の分析はホメロスなどの神話を読み解くのに役立ちます。他に、ソクラテスの公でない私の立場を論じていた示唆に富んだ分析を読んで、宇宙の中心にある「古義堂」の伊藤仁斎の場合と比べて考えることになりましたね。

 

ソクラテス、アルキビアデス、ディオゲネス

読み方によっては、真面目なプラトンが語り伝えた真面目なソクラテスほど退屈な人物はいないのですが、弟子たちに面白いのがいます。小田実はアルキビアデスについてこう語っていました。「われわれはすぐ、国家、国家と優先するけど、市民を殺す国家なんて捨てていい、向こうへ寝返ってかまへんとアルキビアデスはいうわけです。私はそうやって国家と市民は平等だと思って生きているけど、皆さんも、そうやって生きてくださいよ」。▼それからソクラテスの弟子の弟子にディオゲネスがいました。かれは、どこの市民かと問われて、「世界市民(コスモポリタンの市民)だ」と答えたといわれます。(ジョイスのブルームみたいですな)。かれが属していたキュ二コス派(犬儒派)は、ギリシャの全ポリスがアレクサンドロスの帝国の下に従属しはじめた時期に人気を博しました。アレクサンドロス大王がこのディオゲネスの前に立って、何なりと望むものを申してみよ、といったとき、かれは、どうか私の前に立って日差しを遮らないで欲しいといったといわれます。▼こういう弟子たちからソクラテス...がどういう考えをもっていたのかを教えてくれるのが「哲学の起源」の柄谷行人。「ソクラテスは、民会や法廷で活躍し権力を得るということを、価値とはみなさなかった。彼が教えるのは、公人として活動するための技術ではなく、むしろ、それを断念させてしまうような考えである。「青年を堕落させる」とは、むしろそのことである。」「ソクラテスがもたらしたのは、公人であることと私人であることの価値転倒である。それは先ず、私人であることを公的=政治的なものに優越させることである。キュニコス派と呼ばれたソクラテスの弟子たちは、このようんさ価値転換を遂行した」。▼なるほど論理的にかんがえぬかれていますが、しかしですね、公人であることを諦めている知識人たちにとっては私の領域しかありません。公的=政治的なものを批判していく、私の領域に依拠するこそが宇宙の中心にあると考えることが本当の意味の価値転換なのですよ。これを論じているところでは、柄谷は最初から現代の視点から語っているようですが、かれがいう「公人であることと私人であることの価値転倒」が、帝国のもとでの同化主義のことを語ってしまっていることにきがつかないようです。