「資本論」を読むというこだわりは、日本知識人だけに起きるものであるという。日本知識人となにか?その知の構造を明らかにするために

資本論」を読むというこだわりは、日本知識人だけに起きるものであるという。日本知識人となにか?その知の構造を明らかにするために、廣松、今村、「現代日本の思想」(久野&鶴見)、柄谷がいかに「資本論」を読むのかをみていく。と、「資本論」を思考可能な空間に思考できない特異点として措定していることがわかる。このような特異点としての措定とは、起源の指定(廣松)、隠蔽の置換(今村)、党派性の根絶(「現代日本の思想」)、同化主義(柄谷)のこととして整理できようか。このような人文科学におけるかくの如き特異点がどんな深遠な限界を思考にもたらすかは、宇宙物理学の数学が解消しようとする特異点の場合と比べることができるかもしれない。彼らの「資本論」の読みの共通の特徴といえば、その読みに思考不可能な優越的な特権を与えることだ。その前に、モラルの特権と経験性の特権は河上と宇野に配分されていた。この特権性の前では、現代経済の岩井が他のテクスト(スミス、ケインズ)と関連づける読みがただ二次的な重要性しかもたないのだ.

さて廣松に対した柄谷にとっては、問題は、経済学ですでに繰り返し言われていたようなことを、「資本論」を読む廣松があたかも初めて言ったとしたかれのこだわりにあった。柄谷が廣松にあれほど怒った理由ははっきりとわからないけれど、かれの怒りは、廣松が自らの思考を「資本論」を起源とする反駁できない中心に向けられていたように思える。

次に、今村の場合、親鸞の清沢の文からレヴィナスの暴力論を読みだしてしまうかれの読みに言えることだが、絶えず書かれていない西欧の知を読みだすくせに、同じようには書かれてない日本の暴力のことは決して読みださないように、彼の「資本論」の読みも、フランス現代思想の構造を読みだすまさにそのときに、歴史修正主義者の安倍の国体論的ファシズムー東アジアと人類の平和共存を壊す靖国公式参拝原発推進一体構造 (政財官マ司)を決して読みだそうとはしない。日本の構造の暴力をいかに終わらせるかということ、そしてその目的の為に、人文科学の私達はまだ同調しない自由がある。これを言わない !

三番目に、「現代日本の思想」の画家達は、自分達が表象されている絵のなかに見られると同時に、自分達が熱心に何かを表象している絵を見ることができないとでもいうように。もちろんこの画家たちは思想家たち(久野&鶴見)のことである。自分達が表象されている思想の絵とは近代主義・民主主義・人権感覚である。と同時に、自分達が熱心に何かを表象している絵を見ることができないとでもいうような思想の絵は、恐らく社会主義ナショナリズムのことであろう。つまり等式はこういうことだ。全体主義=社会主義+ナショナリズムー(近代主義+民主主義+人権感覚) そうして北一輝が陥る全体主義が演繹される。戦後民主主義大正デモクラシーから呼び出す近代主義と民主主義と人権感覚は、非転向型実存主義的サークルの読みによって可能となるという。非党派的に読みの中心に「資本論」がある。例えば、ここから「資本論の世界」の内田は死んだ労働と生きた労働の交換に、生活者の声の全体性をきくことができた。

最後に、柄谷が廣松から奪ったのは、「資本論」になにが書いてあるかということに答える特権であった。「トランスクリティーク」「帝国の構造」は、「資本論」の読みを絶対的前提としている。だからかれの「資本論」の読みの無理は、トランスクリティークの無理を、帝国の構造の無理を構成してしまうのである。「帝国の構造」が描く21世紀の風景は、「帝国」の文化的な同化主義である。「帝国」の中心にある国家は自らの普遍的理念(コミュニズム平等主義)を捨て去ることによって、国家の敵対的他者の(対抗的な)アイデンティティを消失させてしまう。即ち対抗的な民族主義ナショナリズムの消失である。グローバル資本主義の時代に、「資本論」を読むという言説がそれを言う柄谷に触発する意味は何か?その意味は、世界共和国性の解釈から帝国性の解釈への移行の内に読み取れる。が、「帝国」の党派的イデオロギーがグローバルデモクラシーの白紙の本に綴られ始めた一字一字の痕跡を消し去る事はできまい

 

付記

進歩の感覚は、物語る特権を他人に与えます。だから経典に何が書いてあるかの質問に答える特権、「アイーダー」の神官の読むあの巨大な権力は、進歩が過去にあったと指さす。初めて言うことでもあたかも繰り返し同じ身振りとジェスチャーで指さなければならないのです。これと全く正反対の方向で、「資本論」を読む特権は未来を指すことに。特権の近代的形態は、繰り返しいわれていたことでも、あたかも初めて指すことを義務づけるのです。ところが、厄介なことに、いつの時代も、そもそも読むことができないのだ、と、見えてしまう者も稀に存在します。しかしその見える者は、その異常な力ゆえに、共同体に畏怖されて処刑されてしまう危険を負うのです。そうして、書かれた読めない映像が日本知識人の内部で繰り返されてきたはず。書かれた沈黙の映像が日本知識人をとらえて離さなかったのに、しかしヴェーユのように盲目の言葉を語る勇気がなかった?つまり読む特権を犠牲にしたくなかった?