グロテスクなものを称える

グロテスクなものを称える

 

「正常で健全な人間」ならばゆるされないという政治批判の仕方ほど、フーコが警告していたような、<正常化の権力>の内部に絡みられた言説を構成してしまうのではないかということですね。質問を受けても答えらなかった事柄なのですが、ロンドンのデモは、人形を燃やしたりサドとマゾの儀式を利用するなどしてグロテスクなものを、(ジャーナリズムの風刺画のように、)表象に介入させているのは、権力が定位する「正常な人間、バランスの取れた人間」の人間像の解釈をなんとしても解体するためだとイギリスをはなれてやっと気がついてきました。

▼[少数者に味方するという]闘いが、十八世紀の思想の内で形成されたような特定の人間性の名の下に推し進められるとすれば、もう最初から負け戦です。その種の闘いは、既成権力の生み出した抽象的人間、正常で健全な人間の名において進められるからです。・・・マルクス主義で俗にいう完全なる人間、葛藤の末に安らぎを得た人間とは何かといえば、要するに正常な人間、バランスの取れた人間のことでしょう。こんな人間像がどうして出来上がったのか。これは医学や精神医学の知と権力、つまり正常化の権力の賜物ですよ。・・・何らかのヒューマニズムを盾に政治批判を行うなど、まるで自分が打倒しようとするものを自分の戦略兵器の内に持ち込んでしまうのと同じことですよ。 -ミッチェル・フーコ、哲学者の回答