言葉と物のコンパクトな世界 No. 26

  • 同時代的に、ただフーコを紹介し、そしてただフーコへのドゥルーズ批判を紹介するだけでは足りない。と、これは他人事ではなく、自分自身にたいして、自己批判を込めて書くのである。たしかに、「監獄の誕生」からはっきりしてきたことだが、権力批判が問題となってきた。ただ、権力批判が大事と言っても、それを一般論で紹介するだけでは、近代日本における対抗<ヨーロッパ>として出てきた諸言説をどう考えていいのか教えてくれはしない。普遍主義近代のもとで国家神道儒家言説(教育勅語)の影響によって成り立った国体的言説を、また靖国言説を、分析せずしてどうやってそれらの権力批判をやるつもりなのか?とくに、戦前の「教育勅語」とその発布形式をどう理解すべきかという問題がある。勉強する必要があるとかんがえているところで、知らないことが多すぎる...。「教育勅語」とは、帝国主義日本が模範にとった近代西欧のかたちなのか?、それとも明時代に確立してくる「大学」の国家哲学を近代日本において実現したかたちか?ーそれにしても、宮内省から各学校に貸与され、校長の責任で厳重に管理、儀式に使用されたという明治天皇のあの気持ち悪い肖像(御真影)は、ヨーロッパ人のような、ヨーロッパ化したアジア人のような、なんなんだろうありゃ?