横断的読み - 「法華経」「コーラン」「南無阿弥陀仏」(柳宗悦)

ダブリン時代に数週間だけスコトゥス学校での夜間初心者コースに通ったから、虎の巻サンスクリット・アルファベット表を照合しながら、सद धर मप ण डर क स त रだけは、サッダルマ・プンダリーカ・スートラと読めるわ。「法華経」は、池上線沿いの地元の歴史に関心をもつようになったからかな。「ガンジス河の砂の数のように幾千万億の無数の詩頌を用いて説いた」(説是法華経 如恒河沙偈)などはまるで詩のようだ。「コーラン」も所々預言者の詩人の語り口を思わせる。「しかし本当は、天にあるもの、地にあるものすべては、好むと好まぬとにかかわらず、アッラーを崇めているのである。朝な夕なに、あらゆるものの影が(ひとりでに地上にひれ伏す)のと同じように」。これは「中庸」特に朱子哲学との関係について想像を促す言葉だ。北一輝大川周明は、戦後民主主義派から右翼ともファシズムとも名指されてきたが、思想史を学ぶ者は、たとえ短い期間でも、第一次大戦後に成立したアジアの革新思想だったその言説を無視することはフェアではない。そこで「法華経」や「コーラン」は植民地主義の近代を超える思考にどんな方向性を与えたか、だ。最後に柳宗悦は、昭和思想史研究会の「歎異抄の近代」か「大正論」で取り上げられてもよかった。彼は民芸運動と(日本帝国主義の対抗としての)民衆ユートピアの関係についてこう言う。「かかる衆生をどうして救済するか・このことを真剣に考えてくれたのは、浄土門の高層たちではなかったか。念仏宗は何よりも民衆相手の宗教である。美の王国を建てるために、何よりも教えを念仏宗に聞くべきではなかったか、問題が民衆的品目の済度にあるからである」と。韓国は柳から大きな影響を受けたといわれる。これに関して、アイルランドナショナリズムの発明はイギリス上流階級の価値観に負うているという複雑な関係のことが90年代ポストコロニアリズム研究で言われたが、果たしてこれと類似のことが考えられるのかどうか。それはよくわからなかった。