文字(「書き物」)を読む知識人がその民衆ユートピアから考えた「通俗道徳」を実体化することの危険性

明治国家から弾圧された教団について調べると、古事記の読みとは全然関係がないところから現れた民間神道が存在した。だが安丸良丸はこれ以上のことを言おうするのだ。今朝ジャーナリズムのコラム(天声人語)が何の躊躇いもなく遺族のつもりになって故人の学問的功績をたたえてこう書き記した言葉に大きな違和感を覚えた。「勤勉、倹約、謙譲、孝行、忍従、正直、粗食、早起きーこれらを「通俗道徳」と呼び日本社会の近代化を支える背景だったと論じた。」ここに日本文化の古層をいう丸山真実男の亡霊が徘徊している。しかし、こういう民衆史ユートピアは明治の国家道徳の対抗として理念的に構成されたものでしかないはずなのに、いかにも、文字(「書き物」)を読む知識人がその民衆ユートピアから考えた「通俗道徳」を実体化してしまうことは、危険なナショナリズムに油を注ぐことにならないのだろうか?ファシズム前夜の2016年の現在、1980年代のテクスト論の批判精神が死滅しつつある、と、これだけは言っておくよ。