われわれは現在どんな歴史に生きているのかを知るようになるためには、思考のジグゾー・パズルを構成するものとして、思考のタイルかあるかどうかです。

わたしは「市民ケーン」のジグゾー・パズルの場面が好きです。どんどん張り合わせていって止まることなく思考の空白を覆うことができるかというと、中々うまくいきません。ブルジョアの共和主義の無理をあらわしているだけでなく、ハリウッド的ナレーションの限界を暗示しているように思われます。映画の中で彫刻はそのアレゴリーでした。さてわれわれは現在どんな歴史に生きているのかを知るようになるためには、思考のジグゾー・パズルを構成するものとして、思考のタイルかあるかどうかです。たとえば浮世絵がそういうタイルかもしれません。高田の馬場とか広尾とかの現在の東京の風景と、幕末の浮世絵に描かれていた風景を比べてみると、浮世絵が明治初年にその芸術的生命を終えたということの意味、下級士族たちが推進した近代化・ヨーロッパ化による徹底した切断の意味をわたしは考えることになります。北斎の浮世絵に、明治に打ち立てられた九段下の東京招魂社(靖国神社)がみえます。ヨーロッパ近代に圧倒されたようにみえる、明治の下級士族の近代化・ヨーロッパ化の言説は、福沢諭吉のアジアを否定することによってはじめて近代化が成り立つというような脱近代化の言説として考えられていますけれど、しかし他方で岡倉天心清沢満之夏目漱石を読むと、かれらがそのヨーロッパ精神を最高のものとみなしたうえで、それを植民地主義に絡みとられる近代から解放しようとしてアジアの可能性から再構成する道を模索したのかもしれません。その意味で、現在言われるところの原理主義の言説と比較できるかもしれません。原理主義というジグゾー・パズルのゲームに、昭和三十年代が絡みとられていくブラックホールの悲惨がありました。日本回帰という国家主義民族主義として呼び出すその国体的言説は、近代が近代に言及するという自己同一の反復の彫刻のようです。ここから安倍から美しい日本の言説が繰り返されています。しかし「どうしてわたしはあなたの語ったようなわたしでなければならないの!?」

 

本多 敬さんの写真