教養をたたえる

‪教養をたたえる


わたしは人文主義という意味ならばですが教養は大切だと考えています。教養に取り組んでいたならば、ルネッサンスソクラテス像からの理解によるのですが、専門家(近代合理的型官僚支配)になっている暇がないでしょうと言われます。これは教養の専門知に対する対抗近代的イメージですね。教養は必ずしもイコール知識ではありません。アイルランドはどちらかというとプラトンが重んじられますから、そういうことにされていますから、知識がなくとも恥ずかしくありませんでした。ちなみにフランスはアリストテレスが重んじられているとききますから、経験にもとづく知識が物をいうらしいのです(そうでなければいけないのです。) たしかにアイルランドにおいては瞑想とか覚醒が過剰に意味をもっているように感じられました。同じカトリック国でも随分違うのですね。産業革命がまだはじまっていないという言葉も繰り返されます。反開発も教養のイメージを為すものでしょう。イギリスは産業革命啓蒙主義の近代がありますので一生懸命知識をもとうとします。何か知識を以って階級を超えようとしている幻想が幻想を生んでいるようにみえます。厄介とおもうのは、教養を身につけていくのは人格形成のためにといわれることですね。正直わたしは人格の意味がよくわからないのです。「人格」の語を使うものを胡散臭くおもうのは、ブルジョワ的なものを正当化する特殊なものを隠蔽して人格の普遍を読ませる透明性に対してです。教養と教養主義の差異ですね、わたしが考えたいことはこの点についてです。教養はいつ、教養主義になるのか?教養主義というと、明治の西田幾多郎、大正の和辻哲郎をおもいますが、和辻はアカデミーにデビューして哲学を教えるとき、かつて三木清から影響をうけたマルクス主義の出発を消してしまって、アリストテレスから語りはじめるのですね。「和辻倫理学」を論じた子安先生の指摘によると、これは無視してはいけない問題です。大正教養主義の世代は漢文を読めなくなった最初の世代なのに、明治維新の近代にたいして反時代的精神である位置と機能をもつことができるでしょうか?

さてわたしはアートを重んじるポストモダン立場ですから、教養の高すぎる高さに対して警戒します。何の本を読んでもいいじゃないか、基本的にはどんな映画でもいいじゃないかとおもうのです。橋下徹との対談で三浦瑠麗という人が「アーチストはほとんどが左翼だ」と言ってますね、ここで、左翼は表現の自由を叫ぶのならわたしの学問の自由も尊重しろよと言いたいようですが、しかしいま一度、表現の自由の対象と学問の自由の対象は違うという点を考えてみるべきですね。わたしの考えでは、芸術は二つの他者をもっています。芸術にとっては、学問は見上げる他者、文化は見下げる他者です。芸術は体制に奉仕しはじめた学問にたいしては異議申し立てをします。また現在は文明を映像を編集するヴィジョンをもっていた和辻からの影響を受けた形の世界文化的視点が流行していますが、文化が体制に仕える流通となったとき、例えば多文化主義の時代に起きてくるナショナリズムと帝国の文明論的一元主義の流通に対して、芸術は文化に対して異議申し立てを行うでしょう。芸術を異議申し立てから切り離すことが果たして可能でしょうか、三浦が言うようにはね。再び和辻ですが、九鬼と大川といっしょに、岡倉天心の東大の講義に出ていたというのですね。だれもがみとめるとおもいますが、岡倉天心の教養はすごいです。だけれどその彼が書いたものは、反教養主義的だおもうことがあります。その背景にインドにおける反帝国主義の運動の経験もあったでしょう。今日意味をもつのは岡倉における言説闘争のほうでしょう。子安先生のおかげでわたしは彼の言説闘争を理解できるようになってきました。近代の経験のなかでヨーロッパの言説であるアジアという他者が現れてくるのですが、先生はアジアはどう読まれたかを分析なさってきました。わたしの理解が間違えていなければ、岡倉天心岡倉天心になるのは、「東洋美術」=「中国美術」という確立された物の見方の中でそれとは異なる物の見方を作りたいとするところからくるのです。時代時代の芸術が集まってくる波打ち際のような境界としての日本列島(「博物館」)においてあった、ヨーロッパの言説「アジア」を脱構築していくだれも言わなかったアジア(「東洋の理想」)に依拠しようと語ろうとしたらですね、教養主義に頼っては到底うまくいかなかったと思われます。横浜で生まれ育った岡倉は実際に顔も変わっていきましたよね、アメリカ人?からインド人へ、中国人と日本人のイメージへとアメーバ的に移り変わりました。「民族」の語は明治維新の後に成立した言葉ですが、結局は「民族」の言説の概念的枠組みにおさまることが不可能であるような、彼自身が反時代的な精神が宿る投射的な芸術作品だったという可能性があったと書くのはあまりに文学的すぎる表現でしょうか?