「映画とは何か」のバザンが映画とは何かを問うたとしたら、「映画史」のゴダールは映画の終焉の宣言によって映画とは何だったかを問うたといえる

「映画とは何か」のバザンが映画とは何かを問うたとしたら、「映画史」ゴダールは映画の終焉の宣言によって映画とは何だったかを問うたといえる。「何か」と「何であったか」を問うモンタージュによって、読む人間は新しく意味を生産できるのか。プルーストが「文学とは何か」「文学とは何であったのか」を書いたように▼「ただ「物を描写する」だけで満足したり、物の線や面の貧弱なリストを作るだけでよしとするような文学は、写実主義レアリズムと呼ばれてはいても、現実レアリテから最も遠い文学であり、私たちを何にまして貧しくし、悲しませる文学である。なぜならそのような文学は、私たちの現在の自我と、過去および未来との、いっさいのコミュニケーションを不意に断ち切ってしまうからだー過去の本質は物のなかに保たれており、また物は未来においてあらためてこの本質を味わうようにと、私たちを誘っているのであるー。本当に芸術の名にふさわしい芸術芸術が表現すべきものは、このような本質だ。また、そうした芸術はたとえ表現に失敗しても、その無力さからやはり一つの教訓を引き出すことができる(一方、たとえ成功しても写実主義からはなんの教訓も引き出すことができないだろう)。その教訓とは、こうした物のなかに保たれている過去の本質には、主観的で伝達不可能な部分がある、ということだ。」(「失われた時を求めて」鈴木道彦訳)

De sorte que la littérature qui se contente de <décrire les choses> , d'en donner seulement un misérable relevé de lignes et de surfaces, est celle qui, tout en s'appelant réaliste, est la plus éloignée de la réalité, celle qui nous appauvrit et nous attriste le plus, car elle coupe brusquement toute communication de notre où elles nous incitent à la goûte de nouveau. C'est elle que l'art digne de ce nom doit exprime, et, s'il y échoue, on peut encore tirer de son impuissance un enseignement (tandis qu'on n'en tire aucun des réussite du réalisme), à savoir que cette essence est un partie subjective et incommunicable. - Proust,

 

本多 敬さんの写真