生ー政治学からの問い

生ー政治学からの問い

原子力規制委員会の田中氏は原発の停止をもとめる民の声がいかにも科学を軽んじている無知蒙昧な群集のさけびのようにしたいようですけれど、この民の声は科学を軽んじているわけではありません。いまわれわれ小さな人間達は科学を否定しているのではありません。緊急に、大きな人間が自分だけに与えられていると信じるその科学的根拠をただしたいのです。3・11以降ですら、情報の非対称性というか、われわれは情報をもっていませんから、間違うかもしれませんが、問いただすその権利が常にあると考えています。逆に田中委員長が自らに与えている「科学的根拠」が隠ぺいしているものは何でしょうか?原発村の村長さんだったともいわれるこの科学者が自分の仲間とこしらえた安全にかんする客観的な基準をもっぱら自らに適用するということ、ただし大臣の権威、言論によっては覆せない権威のもとに。ここで比較したいのは、非常に美しい高度な数学で理念的に構成されたネオリベ経済学が記述する市場の構造のことです。ここから、安倍自民党ネオリベの政治はなんでもかんでも市場が解決してくれる、と、市場への安...心を通じて伝えてきます。しかし理念的に説明できないものはかれらにとって存在しないのです。例えば貧困の問題はいつまでも存在しないのです。純粋な理論からはみ出すものは、危機管理の「危機」を構成しない、というか。そうして成り立つそんな安心は、政治にたいする「信」を意味するのでしょうか?同様に、安倍自民党の権威に保証された科学的根拠への安心を伝えてきますが、やはりそれは生活する人々の依拠できる「信」を形作るものであるとはいえないのです。窮極的には、原発国家の近代を超克するために何を目指すべきなのだろうか?とかんがえていますが、この言葉を再発見しています。「いまわれわれは科学技術の問題を考え直すべきときにきていると思います。科学の発想を変えて、「人間の科学」の方向を目指せば、いままでにない安全で役に立つものをいろいろとつくっていける、ということです。一人一人の市民が、自前の科学観を持つべきときでしょう。」小田実『生きる術としての哲学』'07。勉強不足でこのように理解していいのかわかりませんが、理論的には、フーコのバイオポリテックス(生ー政治学)の問題提起にかかわる大切な事柄ではないだろうかと理解しています。

 

本多 敬's photo.
work by takashihonda