No.1 ゴダール 

Alors au début, on croit qu'on s'exprime et on ne se rend pas compte que dans cette expression il y a un grand mouvement d'impression qui ne vient pas de vous; et moi, tout mon travail ou mon plaisir de travailler dans le cinéma peu à peu a été plutôt d'essayer de prendre - au moins pour moi, chose qui n'est pas facile - de conquérir ma propre impression. (ひとははじめのうちは、自分は自分を表現していると思いこみ、その表現のなかに、自分のなかから生まれたものではない、ある大きな感化の運動が入り込んでいるということを理解しようとはしません。そして私について言えば、私の仕事のすべては、あるいは映画の...世界で仕事をすることの私の喜びは、むしろ、私自身の感化というものを少しづつ獲得しようと努めることにあったのです。でもこのことは、少なくとも私にとっては、そうたやすくできることじゃありません)

「映画史」の講義で語っているゴダールを読むと、かれは詩を書いている、と同時に、批評を書いているという印象をもつ。しかし詩を書いたものなら分かることだが、詩と批評を同時に成り立たせることは非常に無理なことであり恐らく不可能なことなのだ。だから同時性は破綻してしまう。だから同時性というのは、理念的に構成された次元の同時性のことである。ゴダールの場合それは「映像」と彼が呼ぶ働きなのだろう(モンタージュでいわれるのはそういう同時性の理念性)。本居宣長も詩と批評を同時に書いたようである。松坂の(骨が無い)墓のお寺が文化サークルの場となったが、そこで彼は(まりうまいとはいえない)歌を書いていたのである。宣長の歌についての批評の書き出しはこういうものであった。「歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず、この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。答曰、非也、歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又国家の害ともなるべし、身のわざわい共なるべし、みな其人の心により出来る歌によるべし」 (本居宣長著『排蘆小船』(アシワケオブネ))。ここで、「ただ心に思ふ事をいふ」といわれていることは、ゴダールが言う「私自身の感化というものを少しづつ獲得しようと努めること」に重なるのである。ゴダール宣長....遠いものを近づけてみよ

(p57、16行目まで)「女と男のいる舗道」はあまりに遠く離れています。私はもうなにも覚えていません。私が自分の嘗ての映画を見て強く感じるのは、自分が今、互いに異なった二つの運動に分割され始めているということです。その運動のひとつは、なにかをなかから外に出すことで、表現と名づけることができます。もうひとつはそれとは正反対に、なにかを外からなかに入れることで、感化と名づけることができます。私が思うに、一般的に言って、プロデューサーにとって問題なのは、本をつくる場合と同様、フィルムになにかを印刷するということです。プロデューサーはひとつの職業についているのであって、-人々に<感化を与える>とか、風景や映画からある印象を受けるとかいわれるような意味でー人々になにかを感化しようとしてうぃるのです。もっとも、ひとははじめのうちは、自分は自分を表現していると思いこみ、その表現のなかに、自分のなかから生まれたものではない、ある大きな感化の運動が入り込んでいるということを理解しようとはしません。そして私について言えば、私の仕事のすべては、あるいは映画の世界で仕事をすることの私の喜びは、むしろ、私自身の感化というものを少しづつ獲得しようと努めることにあったのです。でもこのことは、少なくとも私にとっては、そうたやすくできることじゃありません。

(「ゴダール映画史」奥村昭和夫訳、筑摩書房)

 
本多 敬さんの写真

 

「映画史」の講義で語っているゴダールを読むと、かれは詩を書いている、と同時に、批評を書いているという印象をもつ。しかし詩を書いたものなら分かることだが、詩と批評を同時に成り立たせることは非常に無理なことであり恐らく不可能なことなのだ。そんな同時性は破綻してしまう。だからこそ同時性というのは、理念的に構成された次元の同時性のことである。ゴダールの場合それが映像で意味される働きなのだろう(モンタージュでいわれるのはそういう同時性についての理念)。本居宣長も、詩と批評を同時に書いたようである。今年訪ねた松坂の(骨が無い)墓のお寺に文化サークルの場があったようだが、そこで彼は(決して上手いといわれない)歌を書いていたのである。宣長の歌についての批評の書き出しはこういうものであった。「歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず、この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。答曰、非也、歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又国家の害ともなるべし、身のわざわい共なるべし、みな其人の心により出来る歌によるべし」 (本居宣長著『排蘆小船』(アシワケオブネ))。ここで、「ただ心に思ふ事をいふ」といわれていることは、ゴダールが言う「私自身の感化というものを少しづつ獲得しようと努めること」に重なるのである。ゴダール宣長....遠いものを近づけてみよ

 
本多 敬さんの写真