ヘイトスピーチを発見する時代

ヘイトスピーチを発見する時代

ヘイトスピーチを発見する時代

ヘイトスピーチというのは、恐らくは防衛上の理由かなにかで(それまではそれほど区別なく殆ど一体であったかもしれない)中国と朝鮮から境界線(防衛線?)をひくことになった、そうして「日本書記」「古事記」という国家アイデンティティを新しく書き記した時代に遡ることができるという、隣国を罵倒してきた「日本人」のコアを形作っているものかもしれません。21世紀のヘイトスピーチを発見する時代に、ヘイトスピーチがつくった「日本人」とは何かを政治的に問わざるをえません。▼さてグローバル時代のわれわれはなにものかと絶えず問う問いの根底に、多様性の方向性をもった市民概念の普遍があります。マイノリティに対するヘイトスピーチは、この多様性としての普遍性を崩す危険性がないでしょうか。これ以上ヘイトスピーチの放置は許されないでしょう。規制の必要性があることは明らかです。▼他方で、規制権力に起きる腐敗のことが深刻に心配されています。規制の仕方を間違うと、あらゆる言論行為の細部に対する干渉が起きないとは言い切れません。日本語の場合、呼び捨てはヘイトの意思表示を含みますが、軽蔑し憎んでもいる相手だから「安倍」と呼び捨てしているこの私の所にそれを口実に警察が来るとしたら、来ないとしても常にそれを心配しなければならないとしたら?▼大袈裟でしょうか?しかし警察主宰のデモという風景が当たり前になる怖いこの国。警察の過去のあり方をみると、適切に運用できるのかと疑問を呈する声もやはり無視できません。折衷的に、考え方として、規制法はヘイトスピーチがなくなったら直ちに廃止、問題が起きたら再び新しく規制法をつくればよいのではないですか。▼大変不効率で無駄にみえますが、民主主義とはこういうふうに不効率で無駄なものなのです。民主主義の内容は建前的なその手続き的意味と一体です。ヘイトスピーチに対する抗議とともに、その規制を濫用させないように国家を監視していかなければならないことだけは確かなようですね。