近世がかんがえた学問の意義 -伊藤仁斎「童子問」第21章の感想文-

伊藤仁斎「童子問」より

宋明の儒先、皆性を盡(つく)すを以て極則と為(し)て、学問の功(こう)益々(ますます)大なることを知らず。殊(た)えて知らず己が性は限り有って、天下の道は窮(きわ)まり無し。限り有るの性を以てして窮まり無きの道を盡さんと欲するときは、即ち学問の功に非ずんば、得べからず。此れ孔門専ら教えを尊ぶ所以なり。中庸に曰く、「唯天下の至誠(なるひと)、能くその性を盡せりと爲(す)。能くその性を盡すときは、則ち人の性を盡す。能く人の性を盡すときは、則ち能く物の性を盡す。能く物の性を盡すときは、則ち以て天地の化育(かいく)をたすくべし。以て天地の化育(かいく)をたすくべきときは、則ち天地と参加なるべし」。

 

窮まること、すなわち、出し切るというのは、息を吐きるときのように、(弛緩と緊張の)間を経て、外のなにかをなかにいれる状態(息を吸う)に常に先行することをいうのではないだろうか。そのなにかとは、瞑想において宇宙の端にあると想像された、天と地と聖人が参じる無限かもしれない。他方、出し切ることがないときは、外の代わりに内のなにかを受け入れるときで、ここに既存のものに依存するときの独立が起きるのではあるまいか。だが遥か遠くからやってくる他者は、天地と聖人のあいだの整われた息の内部と関わることができない。他者は形而上学化された息の部分になることがない。他者が関わるのはただ、学問と仁斎が呼んだもの、他との関係を自立化していくような、(特別な起源を想定する必要もないという)どこにもあるという意味での卑近な過程だけである、と考えるようになった。窮まることは、宇宙の端まで行く息の瞑想を考えるような仕方ではわたしは考えることができなくなった。瞑想する間に宇宙の端まで行けるほどに距離がなくなったようでは、それは宇宙ー天と地と聖人が出会うと約束された場所ーが消失したことを意味するが、しかし距離がなければいかにこの外部と関わることができるのかと当惑してしまう。距離が介在してこそ、関係を自立性を保つことが可能なのに。窮まることについて考えるためには、なにかの対象を持つ(または、持たない)という活動に関わることをやめない手について考えるようにして考えなければはじまらないのではないか。天地の間を往復して止まない活動の空間において、窮まることは、すなわち、手の息である。均く、文字が持つことになる、学ぶこの手とあの手

 

本多 敬さんの写真