MEMO

今日の講座(子安宣邦氏)では大変興味深い宇宙生成論における始まりのことが説明された。朱子が語る太極の無という始まりは理でなければならない。本居宣長は始まりははっきりとしないという。平田篤胤は救済論的に正しい始まりを考えた。破綻した後に、補いあう見えぬ世界と見える世界をはじめて考えていく。朱子から600年後に、他から独立している一つのはっきりとしたイメージは役に立たなくなったというわけか。明治維新平田篤胤を継承できなかった。



子安宣邦氏の講座((朱子語類』を読む)‬で、中国哲学研究者のために中国版『朱子語類』のプリントを配っていただいた(左手)。子安先生が使っているのは、17世紀の江戸時代の学者たちが注釈をつけた『朱子語類』(漢文訓読のための返り点であるレ点がうってある)である(右手)。先生のご説明では、1000年前のテクストを読むことの困難さを考えなければならないという。オリエンタル学(フランス支那学)の現代中国語を以って読むよみ方よりも、(朱子の時代により近い)江戸時代に読んだ読み方の方が信頼できるのである。昨日は、『朱子語類』巻三 「鬼神」の3からの文を読んだ。‬


‪「天地の塞は、吾がその体、天地の帥は、吾がその性」(張横渠)。‬

‪カントの実践理性のことばを喚起する張横渠の言葉を子安先生は次のように訳された。「天地がかく在る身体性(存在性)は、わがこの一箇の身体性であり、天地がかく在る理念性(主宰性)は、わがこの心の理念性である」。子安先生のコメント「これは私が覚醒ともいった天地的存在としての我の透察のぎりぎりの言語的表現ではないか。」‬


‪この言葉を読んだときは感動した。ヒンデミットの葬送音楽「ビオラソナタ」の調べを思い出していた...


朱子語類』の鬼神論の言葉、「天地の塞は、吾がその体、天地の帥は、吾がその性」を読む。映画の死と共にヒンデミットの音楽が通る。「世界は矛盾に耐えることができないのであり、まさにそのために生成と消滅とに委ねられている」「精神こそは矛盾に耐え得るほどに強いものである」(ヘーゲル『大論理学』)


ハンナ・アーレントは亡命中に私はドイツ語を喋るがドイツ人である必然はないと語ったという。問題は、日本語を喋るが日本人でなければならないのか?近代は、前近代である日本人に対する永久革命を行うことによってこの問題を解決できると考えているようが、ほんとうに前近代をゼロしてしまっていいの?‪大切な思想形成もあったのだし。‬近代の「真」の始まりとされる始まりも恣意的である。また革命である以上、権力をとる支配者が変わるだけではないだろうか。それよりは国内でもいいから-その場所がわからないが- 亡命した方がいいし、及び腰だがその外部から何とか逆らってやりたいとかんがえるのだけれどね


「問う、鬼神は便ち是れ精神魂魄なるや、如何。」

「然り。」

「では、精神(Spirit、Geist)のヨーロッパ的伝統における生気論的概念はいつ、思弁的概念として世界精神となっていくのか?」

「やはり、ヘーゲルの理念性をものとして再構成した法哲学がそこから弁証法的に展開する市民法(所有権)の言説からではないか。生気論的概念は痕跡として残る?」


‪究極的なもの(原理)は円で囲む形でイメージ化すると破綻しちゃうのは何故か?直観的に言うと、円は自身に投射するとき、無限定に広がる可能性がある。なにかそれは何もかも見せようとするハリウッド映画の失敗と同じで、結局人々はそこになにも見ることができないのとおなじである。(平田篤胤の破綻もこういうことではなかったか。) だから円の投射は有限的におさまるという感じが必要である。円は近傍をもっていなければならない。だがそれは「働き」である。究極的なもの(原理)のイメージを「働き」のイメージによって媒介することはできない。「働き」の根拠を為すものを究極的なもの(原理)rとして示そうとしているのだから。そうして、他から独立している一つのはっきりとしたイメージは役に立たなくなってくる。ここから、他から独立してはいない曖昧なイメージが意味をもつことなってくる。これが私の考えである



「21世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的(グローバル)に破壊しながら、己れの文明への一元的同化を開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否(ノン)を持続的に突きつけ、その革新への意志をもち続けることである」‬

‪ー 子安宣邦『「近代の超克』とは何か」(2008)‬


土曜日は竹内『近代の超克』論を考えた。アジアへの共感なき安倍は西欧近代しかみない。安倍応援団をなす日本会議歴史修正主義は日本しかない。日中国交回復を実現した田中角栄社会党に存在したような、対抗軸としてのアジア主義が消滅してしまったというお話を子安先生からきいた。帝国主義をもたらした近代を乗り越えていく方向を以って理念的自立性を構成できないこと、それを実現する条件が不在であることが現在の問題である‬とされる

‪‪パリは「マクロンはどうなんだ」という批判が隣のお喋りからよくきこえてきたけど、東京にくると、改めて気がつく。日常生活で景気と健康の話題は出るが、昨日食事会のときに話題に出たことだが、隣人に「安倍はだめだね」という話をする隙間もない。この言語化できない禁止を言語化しなければヤバイという危機感すらないか‬パリは「マクロンはどうなんだ」という批判が隣のお喋りからよくきこえてきたけど、東京にくると、改めて気がつく。日常生活で景気と健康の話題は出るが、昨日食事会のときに話題に出たことだが、隣人に「安倍はだめだね」という話をする隙間もない。この言語化できない禁止を言語化しなければヤバイという危機感すらないか‬

‪Nietzsche se doutait bien que lécrivain ne serait jamais debout; que l’écriture est d’abord et à jamais quelque chose sur quoi l’on se penche. Mieux encore quand les lettres ne sont plus des chiffres de feu dans le ciel .‬ ‪ー Jacques Derrida L’écriture et la différence. ‬ ‪ニーチェは、作家が立っていることは絶対にないだろうことに、すなわち、書くこととは、そもそもの初めから、永久に、人がその上にかがみこむ何かなのだということに、はっきりと気づいたのだ。そして、文字がもはや空中ののろしではないときには、いっそうそうであることに。(デリダ『差異とエクリチュール法政大学出版局)‬

‪...Artaud a voulu interdire que sa parole loin de son corps lui fût soufflée.‬ ‪Soufflée: entendons dérobée par un commentateur possible qui la reconnaîtrait pour ranger dans un ordre, ordre de la vérité essentielle ou d’une structure réel , psychologique ou autre.‬ ‪Soufflée: entendons du même coup inspiré depuis une autre voix, lisant elle-même un texte plus vieux que la poème de mon corps, que le théâtre de mon geste.‬

「恋愛恐怖病」は、昔、松下さんが演出なさったものを観ました。興味深く観劇しました。観客席の後ろにいた代表の入江さんと(岸田の研究がある)渡辺先生がともに、岸田のこの芝居はいかにも鎌倉的というか上流のブルジョワ的雰囲気だねというような褒めつつやや突き放したようにも受け取れる感想を述べておられました。わたしははっきりとその意味がよくわからなかったのですが、とくに質問もしませんでした。いま思い返すと、非政治的に、一人のなかの関係の多様性が呈示されているというようなことをご指摘なさっていたのだろうかとおもっています。渡辺先生のお考えでは、劇団というのは、一人の主観ではどうにもならないという意味で、非ブルジョワ的なところなんだそうです。そうすると、劇団という政治的な場で、「舞台は関係がある」ということ。いや、「舞台は関係である」と表現すべきなんですかね。「関係がある」の「がある」と「関係である」の「である」とは同じかな???前者はどちらかというと一人の主観ではどうにもならない関係の客観性で、後者はその関係をなんとか自己のなかで構成しようとする主観性?客観性から主観性への移行?日本語はその境界が曖昧。関係の冒険という一人の主観ではどうにもならない政治の事件性は終わっているが、思想としては終わっていないということについて考える今日この頃です。

‪Non sum uni angulo natus, patria mea totus hic mundus est. Seneca, Epistulae Morales ad Lucilium, XXVIII, 5. ‬ ‪わたしはこの片隅だけに生まれたのではない。この世界の全体がわたしの祖国だ。‬ ‪セネカ『倫理書簡集』‬ ‪


ブーメランの鬼神論

オーストラリアではブーメランは野生動物に向けて飛ばしますが、子供時代に東京にきた私はシドニーのお土産屋さんで買ってもらった大ブーメランを国家公務員の公団住宅のコンクリート壁に向けて投げていました。だけど親といた公団住宅は野生化せず、二つに折れたブーメランも大地に葬られることなく母親によって勝手に産業ゴミとして捨てられました。しかしブーメランというものをはじめて見た近所の超ガリ勉の子供は衝撃を受けて勉強をやめてしまって肖像画を描く芸術家の道に進んだみたいです

中国語は、何世紀にもわたって、朝鮮語、日本語、アンナン語の語彙に洪水のように入っていったが、お返しに何ひとつ受けとっていない。ーエドワード・サピア『言語』

脚の痛みに水の中を歩くといいらしい。今朝は就学前の大勢の子供たちでプールが遊園地化していた。中には私みたいにナイーブな子どもいて、シャワー室でスタッフのお姉さんに世話されている。

「名前はなに?」

「...」

「ママになんて呼ばれてるの?」

「そのママってのは、オフィーリアのこと?」

(変な子供だわ)



可視的なものはー内部における構築された表象ーは、言説的なものー自己同一化の言説に絡み取られる。「方法としての自然光」が自己同一化の言説を解体していくという。スタジオの外の自然光への依拠はゴダールの「外部の思考」を構成する。他者の領域において可視的なものと言説的なものとは独立している


思想の歴史に「方法としてのアジア」がある。映画の歴史に「方法としての自然光」がある。思想史も映画史も「外部の思考」が要請されるのである

‪西欧は60年代の近代批判の新しい思想に先行してスターリズム批判が存在した。「独ソ不可侵条約」でナチスと手を結んだスターリズムだが、ハンガリー革命まで批判しなかったサルトルは批判された。アジアは、50年代に、「近代の超克」の竹内好によるマルクス主義アジア主義(例 平野義太郎)批判があった。