国民投票の意味 (4)

英のEU離脱の問題は、世論調査の質問できかれていたみたいだけど、「日本経済に悪い影響があるかどうか」という関心しか呼ばないのでしょうか?多分どうせそれは安倍が答えるのでしょう。英のEU離脱の問題は、現状においてそれを思想的に考えてみようとするひとがひとりもいないという問題、言い換えると、その問題は、大手マスコミは安倍に迎合していると怒っているのにならばそのマスコミが考えることができないことを、なんとか自分で考えてみようとはしないという問題のような気がしてきました。英のEU離脱の問題に限らないのですが。本当に自戒を込めて。自分はイギリスにいたから書く責任があるとおもいます、大した事は書いていませんね、思考の不足

ベルリンの壁の崩壊が起きたとき、やはりマルクスユートピアは間違っていたことが最終的に証明されたといわれたものですが、(反対に、やはりマルクスが言う通りに民衆が解放されたのだと言ったのがゴダール)、とにかく衛星国であった東ヨーロッパを世話するといわれたのがEUでした。実験とも言われました。...

英のEU離脱を決めた国民投票の民主主義が軽蔑されるとしたら、マーストリヒト条約やEU憲法国民投票で否決した国々ーフランスとかアイルランドとかーも軽蔑されるべきだし、昨年のギリシャ国民投票の民主主義も軽蔑されることになってしまうでしょう。だから問題は国民投票の民主主義にあるのではないと指摘する意見があります。ここであらためて、EUの理念的なあり方を考えてみると、それは社会主義ユートピアでもなければ、再び帝国主義のヨーロッパでもない、おそらく社会民主主義のヨーロッパを新しく再びはじめることだったと私は理解しています。だが、EUは本当にその通りに機能しているのかという疑いは、私の場合には、アイルランドルーマニアから大量の難民がきたときにはじめて考えることになりました。また、トリエステの地で友人から聞かされたこんな話もありました。ブリュッセルから、EU加盟の条件として明確な国境線を引けと命じられた結果、定住の強制を拒んだ人々ー所有権と同様に国家以前から持っていた自分たちの移動の権利を奪われたと抗議する謂わばEU内亡命者たちーが大量に出てきたということなのですね。それまで一度も起きなかった、「国境線」をめぐる地域紛争すら起きているという、人びとから問いかけられた、EUの多様性を尊重する理念的なあり方を問う経験知ですね。

真の多様性を自分たちのものにするためにおそらく理念的再構成が必要とされたのですが、ところがEUそれ自身を揺さぶる戦争が起きてきます。20世紀の終わりに展開されることになったアメリカの対イスラムの戦争を契機に、ヨーロッパはその近代がヨーロッパでないものを排除することによって成り立ったという限界が露呈しはじめたのですね。(イギリスのアフリカ系の人々が受け入れることができない言葉ですが)、EU離脱を訴えた極右翼のスローガン We are on our own は、実は、イスラムを排除したヨーロッパの、したがって現在EUのWe are on our ownと表裏一体をなすものではないかと考えています。国家の戦争している敵対的他者を揶揄することの危うさも自覚されないほどの We are on our own となっているかもしれないこの声を、フッサールならばこれを「純粋な自己ー触発」と呼んだかもしれません。そうであれば、問題は、「外部性の助け」とデリダがいうものが消滅しつつあることにあるとおもわれます。

アジアはヨーロッパをどう読むのかは、アジア知識人の読みを無視しては読むことが難しいでしょうが、批評としての帝国の分析に、アイデンティティの自己同一の理性が忍び込むということが生じるとすれば、再び超越性の内面化を、帝国のアイデンティティーとして正当化してしまうという何という不毛な反復かと言わざるをえません。いまさらデリダ、されどデリダ。これはどう考えるべきかとデリダのこの言葉をふたたび読んでいます。

「誰かに語りかけること、おそらくそれは自分が語るのを聞くこと、自己によって聞かれることであるが、同様にしてまた同時に、他者によって聞かれる場合には、その<自分が語るのをー聞くこと>を、他者が、私がそれを産み出したとおりの形式で、他者の内で直接的に〔即座に〕反復させるようにさせることなのである。直接的に〔無媒介的に〕反復するように、つまりどんな外在性の助けも借りずに純粋な自己ー触発を再生させることなのである。」(デリダ 声と現象、林訳)