ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

1970年代になって、ガタリと共同して著作活動を行い、その成果は「アンチ・オィデプス」、「カフカ」、「ミルプラトー」として刊行されるが、この三冊はなんといっても映画の思考に規定された仕事だとおもう。1969年の「意味の論理学」、「差異と反復」「スピノザと表現の問題」は、1960年代のドゥルーズの思想の頂点をなすといわれるが、この時代はまだ演劇の思考に規定されていた。「アンチ・オィデプス」では’神に背くオィデプス’のことが語られているが、その原型は「意味の論理学」にある。「相互の関係と反作用とによっての存在する」といわれるように、すべてが表層で進行するが、その「物体を平面化する台」は、映画スクリーンではなく、舞台 のことである。よく知られているように、「意味の論理学」はF.ベーコンの作品を分析しているとされるが-フロイトがダビンチを、ハイデガーゴッホの絵を分析したようにー、ベーコンの絵もあれはあれで舞台が表現されているんだね。俳優について書いた面白い文がある。「俳優は神に似てはいず、神に反する者に似ている。神と俳優は、時間の読み方で対立する。人間が過去もしくは未来として把握するのを、神はその永遠の現在において生きる。神はクロノスである。神的な現在は円周の全体であるが、過去と未来は残りの部分を捨ててしまう特定の部分に対応する次元である。逆に、俳優の現在は最も狭く、最も限定され、最も瞬間的で、最も点の性質があり、たえず線を分割しそれ自体も過去と未来に分かれて行く直線状の点である。俳優はアイオーンに属している。最も深いもの、最も充実した現在、油のしみを作り、未来と過去を含む現在に代わって、無限定の過去=未来が現れる。それは板ガラスほどの厚さもない空虚な現在のなかで反映している・・・」

 

本多 敬さんの写真