セリー

‪ ‪1980年代にケインズ批判経済学とかリベラルの統治的憲法学とかを勉強しなければならなかった感じで、海外に行くと、比較文学ラカン精神分析的映画学、ポストコロニアリズミ的フェミニズムを勉強したものだけれど、偉そうに言っちゃうと、マルクス主義から自立していく1970年代から顕著なのは、学たちが成立してくるのは、表象の知でも19世紀的表でもなく、ただセリー(系列)を住処とすることによる。『雨月物語』の亡霊如きものだったか、廃墟を隠蔽する覆ってくるものが次々に現れては、現在わたしにとって全部消滅してしまった。‪何ひとつ完成されなかったのだけれど、‬それでも、構造主義の知と(日本)思想史を解体するような書かれるセリーになんとか支えられているとおもうことがある。新しい学ーポスト構造主義のアジア国家論ーをもつことによって、過去が成り立つということだってある。