国や時代に対等な「わたし」をつくれ!、このことが、私が良く生きるための条件ですし、皆さんも国と対等になれ!

ファシズムは近代国家からしかあらわれてきませんが、ただし、それは戦前のいわゆる単一価値観の全体化からしかあらわれないにきまっていると決めつけることはできません。ファシズム前夜の現在、高い教育のもちでも起きうる危険性も考えに入れておかなければ。ヒトラーを分析したハンナ・アーレントの文を読むと、代表されている者と代表している者との差異が溶解したときに独裁的指導者との一体化が大衆社会において起きるというのです。だから代表する者がいてもよいが、ーそこで国や時代に対等な「わたし」をつくれ!、たとえば安倍の美しい国国家神道の復活にたいしてそこに連続的に嵌め込まれない徳川日本と江戸思想の時代の「わたし」とか、この場合の「わたし」が依拠する国と時代は一人一人違うでしょうがー、このことが、国内亡命の場所をつくるこのわたしが良く生きるための条件ですし、皆さんも国と対等になれ!と願って訴えるかもしれません。

「OO『人』を殺せ」と他者にたいする排除を街頭で意思表示をするような人々は、我慢することなく自分達の欲望にしたがって良く生きることができると確信しているかのように振る舞っていますが、なにか直観的に言ってこれは、(政教分離憲法に違反する形で公式に)靖国伊勢神宮に参拝する安倍の怖さに対応しているようにおもえてしかたありません。「殺せ」というエスカレートしていく窮極のところで、彼らがいうところの「すべてのために」の観念が購うことができないほど、身体を壊すことが彼らに起きるかもしれません。ネグリによると、酷い孤立の痛さを知覚する必然のことをスピノザウィットゲンシュタインは知っていました。適当な言葉がありませんが、本当に良く生きるためには、戦う国家(=祀る国家)に配慮して他者を殺すことになるよりは、もっと自分自身を殺してしまわないように自身に配慮して良く生きましょうよ、わたしもそうしようとおもっていますからと言いたいのですがね

 

本多 敬さんの写真