ドゥルーズ「差異について」(邦訳1989年)を読む

ドゥルーズ「差異について」(邦訳1989年)を読む

アジア哲学の中心にある「性」の概念は、同一「性」と異質「性」の二つの方向をもっています。「理」と「気」、この両者は、朱子において、同時に存在しました。が、「理」は「気」に先行するというふうに、実際は「理先気後」と考えられました。こうして宇宙の優先的に根拠として「天理」(「理」)が存在すると説明されてきたのです。これにたいして、17世紀の貝原益軒などの修正朱子学と形容される儒者たちは形而上学的に語られる「理先気後」に疑問をもちました。徳川日本の修正朱子学は「性」を読むとき異質「性」の意味を重んじました。子安氏によると、異質性は、人間の個性的な存在のあり方を尊重するという方向です。ここから、日本近世は、海外から入ってきた文献の翻訳と一体となって経験知を積極的に拡大させた結果、ヨーロッパの近代をスムーズに受け入れることができたのです。他方で、同一性は、すべての人(存在)に「天理」(「理」)を内在させるという人間の平等観を指示する方向と理解できます(「華厳」などの仏教からの影響も重要)。この方向は、心学の石田梅岩のような注目すべき思想展開がありますが、近世の修正朱子学の全体にとっては重きをなさなかった方向と考えられます。こうして近代日本は西洋と比べて平等が重んじられないという思想的背景がみえてくるといいます。平等が重んじられないというのは現代に至るまでそうです。たとえば1970年代に差異性の批評精神をもたらしたのがポストモダンです。ベルリンの壁の崩壊に象徴されるようにグローバル資本主義がはじまる80年代後半に言説のメインストリームとして確立していた、ドゥルーズなどのその差異性の哲学は、格差の社会の現実にたいしてどう取り組むかという問題に直面することになったのです。経験知によって、差異の理念をただす必要がありました。「マルチチュード」の言説はその一つでしょうが、ただ、現在は自由な空間を求める「左」の論客だけでなく、狡猾にも自由な空間を包摂しようとしている「右」の論客も自分に都合よく論じてはじめていることにもっと注意すべきだと思っています。わたしの考えでは、同一性という、すべての人(存在)に「理」を内在させるという人間の平等観を指示する方向が検討されるとしたら、差異の思想に市民の思想を付加することの重要性ですね。しかし同時代の欧米の思想と比べて、日本ポストモダンの多く論客たちが葛藤もなくスイスイとナショナリストへ腐敗してしまうのは、国家主義に絡みとられていくからとしか説明がつきませんが、兎に角国家の形にこだわる言説は例外なく現在、アジアの脅威を生み出すことにしかなりませんよ。グローバル時代において独立をいうアイデンティティの政治は危険なリアクションを呼び出します。(現在の時代環境をかんがえると、グローバル時代において、国家や民族のアイデンティティの政治は危険なリアクションを呼び出します。) だから世界帝国に行くのではなく、なんというか、<地域>における複数の普遍主義が互いに自立した関係を保って成り立っているところで生きる市民のネットワークのあり方を考えているのですがね

 
本多 敬さんの写真